前回の記事に掲載した「付録.稲庭うどんに関する情報」について。
稲庭うどんについて知りたいと思いWebを検索したところ、ページごとに少しづつ違った内容が記載されていました。一体どこにある情報を元に記載されているのだろう?そこには何か文化財のようなものが残され、博物館などで見学できるのだろうか?と思うに至り、まずは書籍を調べてみました。
菅江真澄 (1814 文化11) .「増補 雪の出羽路 雄勝郡」と稲川町教育委員会 (1984 昭和59). 「稲川町史」の原文を確認できましたので、その上で考察してみたいと思います。
稲庭うどんの発祥について
稲庭うどんは寛文五(1665)年、小沢の佐藤市兵衛が始めたとされています。
菅江真澄「増補 雪の出羽路 雄勝郡」では、稲庭うどんについての網羅的な知見や発祥の追跡を意図した文体・記載がみあたらず、地誌として、稲庭本郷 中町驛で佐藤吉左衛門家が看板を掲げて御用達を務めていることに着目して記載したものとなっています。
その結果、次のことが伝聞として記録されています。
- 佐藤氏五代目の吉左衛門が干饂飩をつくったのは元文(1736年~)のはじめごろからだったこと。
- 評判の干饂飩を作れるようになった技術習得の経緯については吉左衛門氏が由利本荘で麺づくりを学び、その後も吉左衛門氏が改良を加え続けたこと。
- 由利本荘の干饂飩の師匠が弟子である吉左衛門の方法を試したがうまくいかなかったほどであること。
書物が記載されたのは1814(文化11)年ですから、元文年間が1736年から1741年であった前期とは76~78年ほどの時間差が生じますが、元文年間当時を見知る人からの伝聞であったかどうかについては不明です。
また、稲庭の小澤村で、佐藤長太郎氏が素麺を御用達で上納していた一文が見られ、佐藤市兵衛家子孫の当時が垣間見えます。
他方、稲川町教育委員会「稲川町史」では1984(昭和59)の出版で発祥から319年の時間があり、佐藤清司「稲庭古今事蹟誌」からの引用を基本とし、1枚の写真を事実として添えて次のようなことが伝聞として記録されています。
他方、佐藤清司「稲庭古今事蹟誌」(いなにわここんじせきし) では1904(明治37)年の出版で239年の時間がありつつも、次のような伝聞を断定的に記載しています。※2017年9月30日訂正。
- 小沢の佐藤市兵衛氏は製麺を事業とした人物で、寛文五(1665)年に干饂飩を始めたこと。
- 佐藤市兵衛氏が1690(元禄3)年に素麺類で藩主御用を賜ったこと。御用版木が子孫である長太郎家を経て、栄介家の所蔵となっておりその写真があること。
またその写真には蕎麦麺、かたくり麺、粟素麺、細素麺(一部読み取れない)の版木が写っている。※2017年9月30日訂正。 - 佐藤市兵衛氏の子孫である長太郎氏が廃業したこと。
- 佐藤吉左衛門氏が長太郎氏の廃業と同時期に干饂飩の製造をはじめたこと。
- 吉左衛門氏が1752(宝暦2)年に御用達となり、御用干温飩所の看板を掲げていたこと。
そして、 稲川町教育委員会「稲川町史」では1984(昭和59)の出版時において、佐藤市兵衛の御用版木が子孫である長太郎家を経て、栄介家の所蔵となっていることを写真の掲載で示しています。ただしその写真は蕎麦麺、かたくり麺、粟素麺、細素麺(一部読み取れない)の版木が写っているもので、干饂飩のものではありません。
閲覧可能なこれらの情報からは、次のような干饂飩の確立に至る歴史を推測できるかと思います。
- 寛文五(1665)年に稲庭・小澤村の佐藤市兵衛氏が干饂飩を始め、製麺を事業とした。
- その後、元文(1736年~)のはじめごろ佐藤市兵衛家では子孫・長太郎氏が製麺事業を廃業。
- 長太郎氏の廃業の同時期に、5代目佐藤吉左衛門氏が由利本荘で麺づくりを学ぶなどして干饂飩の製造を創業、年々改良を行ない、1752(宝暦2)年に干饂飩が御用達となった。
稲庭うどんの伝承
菅江真澄「増補 雪の出羽路 雄勝郡」と稲川町教育委員会「稲川町史」 に加え、佐藤養助公式Web「
歴代佐藤養助の軌跡」の掲載内容を見ると、稲庭うどんの製造は家業として伝承された時代から、のちに昭和に事業として拡大したことを確認できる。
- 佐藤市兵衛家では子孫・長太郎氏の代で廃業された。
- 佐藤吉左衛門家では5代目吉左衛門氏が干饂飩製造を創業、確立。
- 1860(万延元)年、稲庭吉左衛門家4男が干饂飩の製造を継承し、佐藤養助家の養子となって2代目佐藤養助として創業。
佐藤吉左衛門は稲庭吉左衛門と名乗り、製造方法は一子相伝であった。
以降、稲庭吉左衛門家と佐藤養助家が稲庭干饂飩を製造。 - 1972(昭和47)年、7代目佐藤養助が製造方法を公開。
明治以降では佐藤平助、小野寺平五郎、岩川嘉助らが同業を営み、1983(昭和58)年には工場が16、その従業員が300名におよんだ。 - 2017年では稲庭吉左衛門と佐藤養助の他、数十の事業者が見られる。
ただし「稲川町史」によれば(あるいは 佐藤清司「稲庭古今事蹟誌」か)次のようにあり、古くから類似品が製造されていた様子を伺い知ることができる。
- 文政十一(1828)年には干饂飩の偽物が出ていた。
- 文政十三(1930)年には稲庭うどんの販売で、包み紙・箱書きに稲庭誰製と名記することになった。
心残り
ところで、「稲川町史」では佐藤吉左衛門氏が「御用饂飩所」の看板を掲げたと文章で記載されていますが、秋田おみやげ本舗ブログ「稲庭饂飩のルーツ2」には「御用 干温飩処」の写真があります。複数の看板の存在は想像し得るところではあるのですが、佐藤清司「稲庭古今事蹟誌」の引用を記載の主な根拠とされていたのだろうと推測されます。
また「稲川町史」では佐藤吉兵衛も干饂飩を作るようになったとあり、その唐突に記載された人物・名前について引用を根拠としているのか、独自の記載なのかを確認しておきたい点です。
その引用元である佐藤清司「稲庭古今事蹟誌」は1904(明治37)年に記載された書物ですが、その内容が稲川町史に与えた影響が大きいことを考慮するとぜひ確認したいところです。しかしながら、今のところ原文にたどり着くことができていません。