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稲庭うどんの歴史(2)

前々回の記事に掲載した「付録.稲庭うどんに関する情報」と、前回の記事について。

今回は佐藤清司「稲庭古今事蹟誌」を、秋田県雄勝郡稲川町教育委員会 「稲川町史 資料編 7」で確認できましたので、考察してみたいと思います。

稲庭うどんを伝える文献の記載内容について

「稲川町史」 第四章の「うどん」の項について、稲庭うどんの発祥に関わる情報の根拠は、全体を佐藤清司「稲庭古今事蹟誌」から引用したものであることを確認できますが、以下の点で相違があります。

  • 稲庭干温飩の製造が佐藤市兵衛であることを「言われ」と伝聞の文体で記載している点。
  • 市兵衛家の御用を示す版木が栄介家に残っていることを記載し、その写真を掲載している点。
  • 佐藤吉左衛門が掲げた看板を(「御用干温飩所」ではなく)「御用饂飩所」としている点。

また「稲川町史」第五章の「稲庭うどん」の項では、「稲庭古今事蹟誌」と「増補 雪の出羽路 雄勝郡 二」には見られない次の重要な内容が記載されています。

  • 佐藤市兵衛が稲庭うどんを始めたのは寛文五(1665)年であるとしている点。
  • 佐藤吉左衛門が(由利本荘で習ったとも言われることには触れず)佐藤市兵衛の技術を引き継いだとしている点。
  • 昭和の第二次大戦後から業者が増えたことを工場の数と従業員の数を伴って記載している点。

これらのことから、「稲川町史」に記載については、特に第5章の記載を裏付ける資料について関心を抱くところです。

 

他方、「稲庭古今事蹟誌」には次の点が記載されており、干温飩づくりの一時の発展が伝えられています。

  • 弘化年間(1845-1848)に佐藤平助が干温飩の製造を始めていたこと。
  • 明治には小野寺平五郎が干温飩を製造し、品評会で褒状を受けていたこと。

稲庭干温飩というブランド商品は稲庭吉左衛門氏、佐藤養助氏の両家が製造できたものですが、干うどんは第三者によっても作られていたようです。さてこれらの同業者は当時、秘伝の製法なしにどのようなうどんを作っていたのだろうか?どんな味だったのだろうか?と私は思うのですが、皆さんはいかがでしょうか? 

追加の文献

佐藤養助商店について記載された書物を確認でき、前々回の記事を改訂して記載を追加しました。

 

これまでの資料では、佐藤清司「稲庭古今事蹟誌」では稲庭うどん史の全体像を伝聞として振り返ることができました。また 菅江真澄「増補 雪の出羽路 雄勝郡 二」では稲庭吉左衛門氏にまつわるエピソードの伝聞として振り返ることができました。

 

今回の無明舎出版 編「稲庭うどん物語」では、佐藤養助氏に伝わる書付けなどを紹介し、資料から垣間見える当時に関わった人々の意図であったり、稲庭吉左衛門家から佐藤養助家へと人と技術が伝わったいきさつの伝聞が記載されています。そうしたことから稲庭うどんの歴史を線としてつなぐ役割を果たしているかと思いますので、貴重な文献になるだろうと思います。

みなさんもご一読されてはいかがでしょうか?