さらに「きしめん」の言葉が出てくると言われる資料を確認してみました。
「貞丈雑記」を中心に「守貞漫稿」などの重要な史料の原文を確認した上で気づいた点を書き留めています。
特に今回は「コレじゃないきしめん」を完全手作りで再現し、世界初?の写真掲載を試みます。
資料は初回の記事に追加しました。
「貞丈雑記」「庭訓往来 諸抄大成扶翼」
まず伊勢平蔵貞丈「貞丈雑記」 六之下巻をみてみます。
これは1763(宝暦13)年以降に成立したとされる江戸時代の書物です。
全体的に当時の文化的な様子を言葉で説明する内容となっており、その中の「碁子麺」の製法についておよそ次のように説明されています。
- 小麦粉と水でこねて生地を薄くのばす。
- 竹の筒の切り口を刃物のように削ったものにしておく。
- 竹の筒で生地を碁石大に押し切る。
- 碁石大の生地を茹で、いり豆の粉を衣としてかける。
いり豆の粉はきな粉ですから、つまり碁石程度の平たく丸いものだと言っていて、小麦粉で作るきな粉餅のようなもの、ということになるようです。
そうしたことから江戸時代の半ばから終わりごろには、現在のきしめんとは異なるものとして認識されていることがわかります。
ところで、伊勢平蔵貞丈はまた1775(安永3)年成立の「庭訓往来 諸抄大成扶翼」でも同様のことを記し、末尾に次の一文を加えています。
- 今も薩州などではそれを作っているのか。
文章は「今も」で始まり、末尾が疑問の表現で締められていますので、以前は作られていたが、記載当時は地方で作られているといった話も確かではないことがわかります。
これらのことから、「碁子麺」の単語の記載のみしかみられない書物は現在の「きしめん」とは別の物を指している可能性が具体的に明らかですから、1300年代の「新札往来」から1800年代の「庭訓往来」まで500年に渡り脈々と書き継がれている往来物などは現在の「きしめん」に関する史料とは言えないと考えられます。
はい。そんな「コレじゃない」きしめんのLook & Feelが気になるところですが、インターネット上を検索してみてもそれらしい写真がヒットしません。
ということで、世界初でしょうか?「貞丈碁子麺」を作ってみることにしました。
- 乾物屋さんなどで大豆を購入。
- フライパンに大豆を入れて中火にかけ、空煎りします。
- 大豆から何とも言えないいい香りがして、青臭さがなくなっていたら火からおろします。
一粒はとても熱くなっているので火傷しないように注意する必要があります。
- ミルやブレンダーなどを用いて煎り大豆を粉砕します。
必要に応じてすり鉢で細かくします。
きなこの一般的なレシピでは、粉砕する前に袋に入れて叩き、皮を取り除いておくなどの丁寧な方法もあるようです。
- 中力粉に、小麦粉重量の45~50%程度の水を半分づつ、べたついたりゆるくなりすぎない分量まで加えます。
古のレシピということで、当時の製粉技術ではふすまが多量に含まれていたと想像し、ワイルドな風味がある地粉を選び、埼玉県比企郡嵐山町産の農林61号を用いています。
- 全体に水分が回るようにしっかりと捏ねます。
- 生地を薄くのばします。
打ち粉には小麦粉を使うとよいです。
厚さは1mm程度までが良いだろうと思います。
厚くするときは生地に気泡が入らないように丁寧に作り、またゆで時間を調整する必要があります。
- 製菓用の型で生地をくり抜きます。
碁石の大きさは22mm前後のようですので、25mmの丸型を用いました。
ちょうどよい竹筒が身近にある方は工作されてもよいかと思います。
はい、次の写真のようになりました。微妙~。
早速食べてみます。
まず、きな粉の大豆の風味があり、そしてほのかな甘みが感じられます。
続いてきし麺の弾力が感じられ、一瞬、わらび餅を食べている感覚を思い出します。
そして噛むことで小麦のワイルドな風味が開いてきます。
しかし風味はすぐにフェードアウトするため、味に物足りなさの印象を受けます。
このレシピですと、砂糖など甘味系のタレを組み合わせた上できなこをまぶすなど、味は工夫したくなるところです。
1回目の実験についての所感を書いておきたいと思います。
- 食感と風味はあるが、味は未完成なレシピの印象。食べたときの満足度も低く感じられる。
- お菓子としての利用シーンでスィーツ類と競合するには作り込みが必要に思える。
- くり抜きによる生地のロスは非効率で、作り置きも難しそうな印象がある。
逆にひもかわうどんや、名古屋きしめんできなこを見せるレシピを考案した方が、今どきの商品になりやすいように思います。
以上、「コレじゃない」きしめんでした。
「料理山海郷」
では次。博望子「料理山海郷」を見てみます。
初版は1750(寛延3)年とされていますが、確認できたのは1819(文政2)年版です。
料理のレシピが書かれた書物で、「きし麺」の項に次のような内容を確認できます。
- 塩を入れずに練って麺を1.5cm幅の短冊状に切る記載。
- 酒、しょうゆ、花かつおでかけつゆを作る記載。
- 6cmほどに切ったネギがつゆで煮上がったら、ゆで上げておいた麺を入れる記載。
そうした内容であるため、愛知県付近できしめんが作られていたかどうかを確認することはできませんが、平打ちの麺をきしめんと呼んでいることを確認できる史料となっています。
ところで、上記のレシピは溜まりや雑節、昆布は使用されていませんので、麺は現在のきしめんではあるのですが、つゆの味は随分と違っているようです。
「守貞漫稿」
はい、次。喜田川守貞「守貞漫稿」を見てみます。
この書物は1837( 天保元)年から記載され、1853(嘉永6)年に序文が添えられたものとなっています。
内容は当時の文化を大量の文章や図で書き残すもので、この巻五・生業の、うどん・そばに関する項では、きしめんに関わる次のような内容を確認できます。
- いも川というのは昔の温飩の名物の地名か、あるいは温飩に名のある家名だろう、とする意見。
- 今、江戸で平打ちの温飩をひもかはと呼ぶのは、革製の紐に似ているためというが、切り革紐なら革紐と云うべきで、ひもかはというのは芋川の訛なのだろう、とする意見。
- 今、江戸でひもかはと呼ぶ平打ちのうどんを、尾州の名古屋ではきしめんと言っている事実の記載。
またしても革紐を引き合いに出した思案が見られ、ひもかわの呼称の由来については結局のところ意見にとどまります。
一方で「キシメン」が登場し、平打ちのうどんが、名古屋できしめんと呼ばれていることが明確に記載され、歴史的な記録になっています。
この「守貞漫稿」は文章量のみならず、挿絵も書き込まれ、後世に伝えるためにはどんなことが書き残されていることが必要かをよくよく考えて記載されているように思います。また、断定する文章と推測を述べる文章がわかるように記載されています。感動し、とても貴重な書物だなと思うとともに、27歳からこのような書物を書き残そうとした喜田川守貞氏に尊敬の思いを抱きます。
「冨士石」
さて、ひもかわの話へ戻り、「用捨箱」で言われていた「ひもかわ」は古くから呼び間違えられていたた、とする根拠を確認しておきたいと思います。
壷瓢軒調和 編「冨士石」 4巻を確認してみました。「春」の部、「春氷」の項にある次の一句です。
- 『ひ本可者温飩捨水碎く氷可奈 調川子』
確認できた記載は「ひ本可者」(ひほかわ、ひぼかわ)となっており、ひもかわとは発音が異なるようですが、母音が似ているフレーズはあるようです。
そのため、私たちが知っているひもかわ温飩と確かに同じものであるかどうかなどは確認できず、「碁子麺」のように単語が用いられた史料の位置づけになるかと思います。
はい、今日の時点までの調査結果を次のようにまとめ、今週はここまでにしたいと思います。
- 芋川でひら温飩が提供されていた事実は確認できない。
ただし芋川を巡り、平打ちのうどんに関するフィクションと、江戸時代においての考察と意見は見られる。 - 1400年ごろから1800年代まで「碁子麺」といった用語が書かれた文書があるが、碁石大のきな粉餅のようなレシピで、現在と異なる物として伝わっている。
- 1800年代に名古屋できしめんが食べられていたことを伝える史料がある。
その平うどんであるきしめんのレシピを伝える史料は1700年代に存在している。 - しかしながら、三河国・芋川の温飩が旧東海道で人気を博したこと、ひもかわうどんの認知が広まったこと、後に尾張国できしめんが作られるようになった相互の関係については事実を確認できない。