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きしめんの発祥(3)

今回は芋川うどん・ひもかわを追いかけてみたいと思います。

 

まずは芋川うどんの記載を「国花万葉記」で確認します。

 次に芋川うどんが提供された場所を追って、「東海道宿村大概帳」「刈谷市誌」「東海道分間絵図」を確認し、地図に示してみたいと思います。

 

資料は初回のページに追記しました。

「国花万葉記」

菊本賀保「国花万葉記」を見てみます。

1697(元禄10)年の出版で地方(国)別に大名や名所、名物など文化的なことが記載されており、「参河国参州」内の2か所に芋川温飩に関する記載があります。

 

まず1か所目は東海道の「三河ノ内 ち里ふから 尾張鳴海 二里半十三町」の「芦屋」「芋川」「今岡村」「あこふ村」「あり町」と地名が続く中にある、次のような内容の一文。

  • 芋川はうどんそば切の名物である事実

そして「参河國中名物之部」にある次の内容。

  • 「芋川温飩」(イモカワウトン)の用語。
  • 芋川温飩は東海道中の名物となっている事実。
  • 名物として、道中および「繁花の地」含めても一番であるほどだという意見。 

前者、東海道についての記載は、地名とその内容と記載順からして「東海道 名所記」と同様であり、「国花万葉記」の著者が知り得た事実が見られません。

 

後者、名物の項も同様で、「東海道名所記」が評判を”塩梅”と表現したのに対し、書名にも使われている"花"を使って派手に表現されているものの、事実かどうかはよくわからない表記です。

 

なお、「国花万葉記」の文章は後世に「三河志」(1836, 天保7)で引用されています。

 

ここまで調べたところで、どうやら礒貝舟也「日本鹿子 (別名 日本賀濃子)」(1690, 元禄3)にも類似の記載があることがわかりましたので、今後の宿題にしたいと思います。

芋川、その場所1「東海道宿村大概帳」

それでは、芋川うどんはどこで提供されていたのか。

平成の現在では、愛知県刈谷市今岡町日向に芋川うどんの碑が設けられていますが、その場所は史料で明示されているものなのでしょうか?

 

ここでは普段は知る機会もない江戸時代の街道の交通にも触れつつ、書いてみたいと思います。

 

まず、「国花万葉記」の三河と尾張それぞれの東海道の項を見ると、三河と尾張の境界を境川の境橋と認識していることがわかります。「東海道名所記」でも境橋の記載が見られます。

また、東海道の項に芋川を挙げ、うどんそば切が名物だと記載しています。

どうやら芋川温飩は知鯉鮒宿から境川より東側の、旧東海道沿いにあったようです。 

 

では旧東海道はそもそもどこにあったのか。

 背景として街道の交通について概要を知っているとわかりやすいので、一般に言われている内容をまとめてみます。

 

まず旧東海道は江戸・日本橋から京都・三条大橋まで通じる道で、1600年代の前半に徳川家康の命で整備されてできたもののようです。

長距離の道路ですから、旅で必要となる宿泊所や食事が可能な店、運送の取扱所を集約した場所として、53の宿場が設けられていたことが確認されています。

特に移動や運送の手段は人馬か籠かといったものだったようで、大八車などあったにしても、宿場間で人馬や籠を乗り継ぎ・引き継ぎながら移動していたようです。

そして、宿場間の距離は10kmを超えるものだったので、道中には食事や、人馬の休憩、人馬の乗り継ぎ・引継ぎができる立場(たてば)と呼ばれる場所が設けられています。

 

また、街道沿いには距離がわかる目印として一里塚が設けられ、道の左右両側に土を盛って松や榎といった木を植えたものが、江戸の日本橋を起点として一里ごとに置かれていました。

この一里ごと、というのは今の単位ではおよそ3.9kmですが、明治時代になるまでは時代や地域、道の扱いごとに異なって距離は一定しません。それでも人がおよそ1時間歩く距離であったことから目安として使われていたようです。

 

そうした街道の施設状況を幕府が確認した記録があります。

「東海道 宿村大概帳」を見てみましょう。

これは1843(天保14)年ごろの記録であり、知鯉鮒宿の項には次のような内容が記載されています。

  • 一里塚は3か所ある。
    1か所目は左が一ツ木村、右が泉田村。
    2か所目は東阿野村。
    3か所目は有松村。
  • 立場は2か所ある。
    1か所目は五軒屋新田地内字。
    2か所目は鳴海宿地内字平部町。

そうした情報を元に、「GpsCycling.net 旧東海道地図」さんのルートを参照し、街道をGoogleマップにプロットしてみます。

樹のアイコンは一里塚を示しています。 このあたりの一里塚は現存しているため、位置は正確です。

馬のアイコンで立場を示しています。1か所目は現在の豊明市前後町五軒屋付近で知鯉鮒宿と鳴海宿のほぼ中間であることが見てわかります。

2か所目は名古屋市緑区鳴海町字平部付近の、鳴海宿内です。

細い青色の線は旧東海道と思われるルートで、推定が含まれると思いますが合理的な範囲にあることがわかります。

こうして、太めの青い線として、知鯉鮒宿から境川・境橋までの三河国内の旧東海道を確認できました。

 

しかし、「東海道 宿村大概帳」では街道の名物についても雑記でごく簡単に触れられているものの、うどん店の記載は見られません。知鯉鮒・鳴海宿間について書かれている名物は尾張・東阿野村の西瓜の記載だけです。

また、知鯉鮒宿から西の三河国内に立場を確認できず、決まって立ち寄るような場所を見出すことができません。

 

これらのことから、「国花万葉記」が出版された1697年ごろには芋川温飩を提供する茶屋があったとして、1843年ごろにはその茶屋は廃業されていたか無名の存在になっており、周辺は公の立場もないような街道沿いになっていたのだろうと思われます。

芋川、その場所2「刈谷市誌」

次に、刈谷市誌編さん委員会 (1960, 昭和35). 「刈谷市誌」275, 294.を見てみます。

絵図があり、次のようなことがわかります。

  • 「刈谷領往還の今昔」pp.294.で「三河石高図」(1701, 元禄140)の石高の図と、「刈谷領往還絵図」(1780年ごろ・安永年間)の写しにより、建屋の場所が示されている。
  • 「泉田村・今川村・今岡村 古図」pp.275.でも建屋の場所が示されている。
  • 上記の図などにより、知鯉鮒宿から西の三河内には「一里山村」「今岡村」「茶屋町」があったこと。
  • 「一里山村」は北側が泉田村の地、南側が一ツ木村の地であったこと。
  • 「茶屋町」は泉田村の地であったこと。

これらの村の場所を道の形から推測し、先のGoogleマップ上にはオレンジのシェイプで示しています。

 

しかし、「国花万葉記」の東海道の項に記載されている「芦屋」「芋川」の地名は見られません。

また今岡村よりも先に記載されていることから、今岡村の東側で芋川うどんが提供されていたのだろうということはわかりますが、それらしい場所は一里山村の1か所のみです。

 

一里山村について「刈谷市誌」は「三河石高図」の「一ツ木村泉田村の内一里山村」という表現を指して出郷であると解釈、説明していますが、一里山村と芋川との関係は記載がなく確認することはできません。

 

これらのことから、芋川温飩が一里山村で提供されていたとは言えない、という結論に至ります。

また、芋川という名前はどこからやってきたものかも謎として残ります。

  

なお、所説に関心がある方は、1972年の名古屋大学「国語文学」(31)に掲載されている「三河国芋川考」の記載を読まれますと面白いかもしれません。

芋川、その場所3「東海道分間絵図」

冨士昭雄 (2002, 平成14). 「東海道名所記・東海道分間絵図」 叢書江戸文庫版を開きます。

「東海道分間絵図」で池鯉鮒宿とその西側のページを見ますと、次のことがわかります。

  1. 池鯉鮒宿の北東に馬市と説明が描かれている。
  2. 池鯉鮒宿から西へ向かって左に「小ちゃ屋」が描かれている。
  3. 池鯉鮒宿から旧東海道を西へ進むと「一里山」村として一里塚と建物が描かれている。
  4. 池鯉鮒宿の南方には刈谷領が示されている。
  5. 旧東海道沿いに「いも川」村の建物と共に「ちゃやそば切」の一言が描かれている。
    また村の南東側に「洞隣寺」(「とうしんじ」とみえるが)が描かれている。(2017.10.31追記)
  6. 旧東海道沿いに「境ばし」が三河と尾張の境界として描かれている。

この遠近道印作、菱川師宣画の絵図は1690(元禄3)年のもので、「三河石高図」(1701, 元禄140)や「刈谷領往還絵図」(1780年ごろ・安永年間)よりも昔の状況を示しています。

そして「東海道名所記」との関係では上記1、2、5、6の記載で一致が見られます。

また「三河石高図」や「刈谷領往還絵図」との関係では上記3、6の記載で一致が見られます。

 

これらのことから、この絵図は次の重要な点を明らかにする史料となっています。

  • 何やら名前が書かれているだけで明記されていないが今岡村の建物が明示されている。
  • 泉田村地内茶屋町を指して「いも川」村として記し、現・今川町にそば切屋があったことが明示されている。

ただし、「東海道名所記」などで芋川が今岡村の東にあたる記載順であり東西逆転が生じる疑問も生まれます。 

芋川、その場所は現・今川町の茶屋であった。

芋川うどんの歴史をまとめます。

 

芋川うどんの発祥は「東海道名所記」によって芋川にうどんそば切りありと記された1650年ごろのにさかのぼります。

その場所については、「東海道分間絵図」により、1690年ごろには泉田村の茶屋町にそば切を提供する店があり、その集落は「芋川」と呼ばれていたことが示されています。

そして後の1841年ごろには「用捨箱」でうどんが平打ちのうどんであったことが説明され、これらのことから芋川温飩発祥の地は、現在の今川町であったことがわかります。

 

なお、1843年ごろにはそのうどんそば切を提供する茶屋は廃業されていたか無名の存在になっていたのか、以降は実際に訪ねた者だけが知り得る事実が記載された史料を見つけることができていません。

 

他方、ひもかわうどんの呼び名については、いもかわ・今川→ひもかわとなまって、芋川うどんがひもかわうどんと呼ばれるようになったのかもしれません。

 

-- 2017.10.30追記

ところで、村の名前が正しく使いわれていない原因については明解な史料を見つけることができず、説明できない状況となっています。

 

謎はいくつも残りますが、芋川うどんの歴史の追跡確認はいったん区切り、きしめんとしてのまとめに入りたいと思います。


編集履歴

  • 2017.10.30 最後に追記
  • 2017.10.31 「東海道分間絵図」の項で情報を追記。

 

宿題

  • 「東海道名所記」境橋についての活字化