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けんどんの歴史(6)

前回に引き続き、けんどんやの歴史・第6回をお届けします。

これまでに確認した1600年代から1800年代の史料から、けんどんやについて確認できたことをまとめたいと思います。

 

今回のポイントはこちら。

 ☑ "けんどん屋"はいつはじまったのか、諸説をまとめました!

 ☑ "けんどん屋"、"けんどん"とは何かをまとめました!

 ☑ "けんどん"の名前の由来をまとめました!


けんどん屋は1600年代の後半から見られるようになる

●けんどん屋のはじまりは、遅くとも寛文期(1661~1673年)

けんどんやは、寛文期(1661~1673年)ごろにはじまったと見られています。

 

"けんどんや"という言葉は、1687(貞享4)年 藤田利兵衛 「江戶鹿子」で"見頓屋"と地名や店名が書かれているものとして見ることができます。

 

そして、寛文期をけんどんやのはじまりとしている1冊には、1732~1733(享保17~18)年ごろに書かれたとみられる、財津種莢(たからつしゅそう) 「昔々物語」があり、1664(寛文4)年から始まったとする説が見られます。

ただし、この書は70年ほど昔のことを書いたもので、目撃した事実が書かれたのか疑わしい面もあります。

 

また別の一冊には、1720(享保5)年 庄司勝富「洞房語園異本」があり、1662(寛文2)年にけんどん女郎という呼び名ができ、その頃に奥浅草の新吉原・江戸町2丁目のうどんそば切屋の仁左衛門によってはじめられたとする説があります。

ただし、この書の著者は吉原遊郭の妓楼の楼主であり遊郭に利する意図が疑われるとともに、寛文2年は著者の生前のために目撃した事実が書かれたものではないと考えられ、またけんどん女郎の呼び名は1680(延宝8)年に出版された「吉原人たばね」と「吉原あくた川」と、 1682(天和2)年ごろ成立と見られる戸田茂睡 「紫の一本」には見られるものの寛文より後のものであり、そして吉原の細見図類では仁左衛門のうどんそば切屋を確認できないなど疑問が残る点もあります。

 

そうした、1600年代にけんどんやのはじめを説明した史料が見つからず、1700年代の前半に事実を目撃したかどうかが疑わしい説明が見られる時代を経て、1826(文政9)年 高屋知久「還魂紙料」では"八文もりのけんどんや"と書かれた1668(寛文8)年の短歌を見つけたとし、けんどんやができた時代を寛文ごろまでさかのぼることは正しいようだとわかってきます。

ただし、この短歌がどの史料に残されているのかは確認できませんでした。

 

●けんどん屋のはじめには諸説ある

ところで、けんどん屋のはじめに触れた史料は他にも見られます。

 

まず、1734(享保19)年 菊岡沾凉「本朝世事談綺」では江戸の瀬戸物町の信濃屋を"けんどんや"のはじまりとしながらも、いつだったのかがみられず、はじめについてはよくわからない史料となっています。

 

また、1751(寛延4)年  日新舎友蕎子「蕎麦全書」では貞享の終わり(1688年ごろ)に、若男長十郎がはじめたものとして説明していますが、1687(貞享4)年 藤田利兵衛 「江戶鹿子」には既に何軒ものけんどん屋が見られ、1668(寛文8)年には「還魂紙料」がいう短歌があったとされていることから、実際の初めよりも遅くに目撃されたことが書かれているようです。

 

同様に、天明期(1781~1789年)に成立した越智久為「反古染」(衣食住記)にも、享保の頃(1716~1736年)以降に麹町のひょうたんやなどのけんどん屋ができたことが書かれていますが、遅くに目撃された史料とみられます。

 

さらに同様に、1829(文化6)年 大田南畝 「玉川砂利」の「蕎麦の記」についても、何らかの認識違いから書かれた史料とみられます。

 

"けんどん屋"はうどんそば切を一人前づつの"けんどん"で出す店

"けんどん"は一人前づつ出す店

"けんどん"とはいったい何なのでしょうか?

 

「洞房語園異本」はそば切の1人前の弁当を銀目5分づつの安さで売り始めるにあたり、"けんどんそば切"と名付けたと説明しています。

 

また、「昔々物語」でも、侍が野遊びに持参する弁当の話として"けんどんそば切"ができたと説明しています。

 

これら1700年代前半の史料では、うどんそば切屋が、そば切の弁当を作り、1人前の分量と値段で売ったものとしてけんどんそば切と名付けられたと説明しています。

 

ところが、1751(寛延4)年脱稿、「蕎麦全書」の「馬喰町馬場蕎麦切屋大に滅ぜし事」の節ではけんどん屋へ食べに行ったエピソードが書かれており、"けんどんそば"と言ってけんどん屋の中で提供されるそば切を指し、また"其そばのけんどん、大盛なり"といった具合に提供される一人前の一盛をさして"けんどん"と呼ぶ区別が見られます。

そうした"けんどんそば切"は、一尺ほどの大鉢にめったに盛り付けた一膳で出され、つけ汁は粗末な大湯桶に入れられ、猪口に入れたとありますので、どうやら盛りそばをつけ汁につけて食べるものだったようです。

 

続けて、「反古染」(衣食住記)は、菓子屋が製麺し、"けんどん屋"は舟打で納められた一食づつのそば切をゆで、弁柄塗りの桶に入れて徳利のつゆを添えて出していた、と説明しています。

 

また、「還魂紙料」でも、蕎麦切でも飯でも盛切りで出し、代わりをすすめないものだと説明しています。

 

さらには、1830(天保1) 喜多村信節「嬉遊笑覧」では、一椀づつ盛り、食べる人の心のままに(お代わりを)勧めたりしないもので、外へ持ち運ぶ膳を"けんどん箱"と呼ぶ箱に入れるようになり、またその箱を"けんどん"と言うようになり、寛政の頃までは箱に入れて売ることが続けられていた、と説明しています。

 

どうやらそれまでの飲食店は、一皿が1人分を超える量で、値段も高く、店主・店員に挨拶したり給仕してもらうような業態だったにも関わらず、1人でも利用できたようです。

しかし食べない分まで高く払うことは疑問に思われていたようで、1人前づつ出すお店ができたことに意味があったようです。

 

まとめると、どうやら一人前づつの一盛を指して"けんどん"と言うようです。

そして、出されるものがそば切の場合に"けんどんそば切"と呼んでいることがわかります。

また、うどんそば切を"けんどん"で出す業態を"けんどん屋"奈良茶飯を"けんどん"で出す業態を"飯けんどん屋"、"食見頓屋"などといい、"屋"を省略することがあったようです。

さらには、"けんどん屋"がデリバリーで持ち出す箱を"けんどん箱"というものの、これもまた単に"けんどん"ということもあったようです。

 

そうした"けんどんそば切"は、大鉢や弁柄塗りの桶に盛られ、徳利や湯桶に入れられたつけ汁を猪口に入れてたべる、盛りそばのスタイルで提供され、食べられていたようです。

"けんどん"の由来は大きく2説ある

"けんどん"という呼び名にはどのような意味があるのでしょうか?

  

「洞房語園異本」は、安女郎である"けんどん女郎"から名をとって"けんどんそば切"と名付けたと説明しています。

どうやら、当時は安女郎を買うことを"切れを買う"といい、安い弁当のそば"切を買う"という言葉にかけて駄洒落でつけられたようです。

では女郎の"けんどん"はどのような意味かというと、客引きの声が"喧"しく(うるさい)、大衆向けの女郎よりも"鈍"く劣ることから"喧鈍"と名付けられたと説明しています。

ただし"喧"しくの漢字は女偏の現存しない文字が充てられており、読みは同じですが、「江戶鹿子」などに見られる"見頓"や、後世に見られる"慳貪"といった表現とは別のもので、「洞房語園異本」でしかみられません。

 

また、「本朝世事談綺」は、"けんどん"というのは自分の分だけを食べて人に与えない心であり、給仕や店員への挨拶もなく愛想がないのは"慳貪"の心だから、と説明しています。

さらには倹約になることから"儉飩"と書く説もよろしいと説明を付け加えています。

どうやら呼び名が付けられたときの命名の事実を確認したものではなく、執筆当時の状況から書かれたもののようです。

  

そして、「還魂紙料」では、今の慳貪とは"しわい"(けちな)ことであり、蕎麦切でも飯でも盛切りで出し、代わりをすすめないことをけんどんという、と説明しています。

「嬉遊笑覧」も優しみのない意味と表現していますが、同じとみてよいでしょう。

これらも執筆当時の状況から書かれたもののようです。

 

つまり、「洞房語園異本」がいう安さからつけたとする説と、その他の、一人前の飯をお代わりもせずに食べることからつけたとする説がみられます。

"けんどん屋"とうどんの関係は明確ではないが・・・

●うどんも"けんどん"で出すことはできた

 「洞房語園異本」では、新吉原・江戸町2丁目のうどんそば切屋、仁左衛門が、そば切の弁当をけんどんとして売ったと説明されています。

また、「反古染」でもうどんそば切の説明があって、そば切を桶に入れて売ったと説明されています。

そして、1824~1825(文政7~8)年ごろの「けんどん争ひ」では、けんどんの呼び名に"どん"があるからうどんもあったと推理されていますが、これはさすがに事実を示すものではありません。

 

これらのことから、そば切の"けんどん"が食べられていたことは確認できます。

一方で、うどんについて明確に書かれた史料を見つけることはできませんが、うどんそば切を売るけんどん屋はあったわけですから、一人前の一盛にすることに特に障壁もないことから、うどんの"けんどん"も食べることはできたのでしょう。

 

●国分寺市・府中市の"けんどん屋"でもうどんそば切が食べられたようだと推測できる

1697(元禄10)年、府中市矢島茂雄家文書「国分寺村名主八郎右衛門我儘ニ付訴状」の"けんどんや"になんぞやと疑問を抱き、壮大な回り道をしてきました。

 

"けんどんや"はうどんそば切を一人前づつに盛るお店であったことがわかり、また小麦粉とそば粉を3~4:1といった比率で使うことが多く、十割のそばの店は"正直そば"や手打そば切屋を名乗ることがあったようです。

 

また、明治ごろの記録にはなりますが、府中市も国分市でも農産物には大麦が多く、次いで小麦があり、その10分の1程度の蕎麦が作られており、稲はごく少量だったようです。

これは多摩川の扇状地である地質の特性が大量の稲作には適さず、また江戸時代の武蔵野では農民が換金して年貢を納めることができた小麦を多く生産していたようです。

そうした原材料の面からも"けんどんや"といってそば切のみで売ることは少なく、たいていはうどんそば切を拵えていたらしいと考えられます。

 

そして、「府中三町の商売 天保12年(1841) 職業調査」に見られる"温飩蕎麦一膳飯商"とあるものは1800年代の認識で名前が付けられたものですが、土地の特性と"けんどん屋"の業態内容から考えて、1600年代の終わりについてもうどんが出されていたことは自然なことだろうと思われます。

 

これらのことから、どうやら府中でも"けんどんや"といえばうどんも提供されていたらしいことがわかります。 

ようやく"けんどん屋"がどのようなものかわかり、国分寺・府中市のうどん屋の記録を読み解くことができましたので、今回はこのあたりで終わりにしたいと思います。