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けんどんの歴史(1)

前回、国分寺市・府中市の歴史を追って宿題にしていた"けんどん屋"について確認していきたいと思います。

 

まず神宮司庁「古事類苑」の飲食部に掲載されている書物をテキストで全文検索し、これをきっかけに、できる限り原書・原文を 確認し、芋づる式に見つかった史料をたどって諸説の実態を確認してみました。

今回は1600年代の古い順に、何冊かを紹介していきたいと思います。

 

今回のポイントはこちら。

 ☑ けんどん屋が見られる最も古い史料のひとつ、「江戶鹿子」で業態を確認します! 

 ☑ けんどんのはじまりを寛文期とする「昔々物語」の写本の関係をときほぐします! 


お急ぎの方は、まとめの回へどうぞ。


1600年代後半にはじまるけんどん屋

●戸田茂睡 「紫の一本」 ~ 新吉原には"けんどん河岸"と呼ばれる場所があった

 1682(天和2)年ごろ成立と見られる戸田茂睡 「紫の一本」を1714(正徳4)年版で確認しました。

 

「窪」に続く「谷」の項に、新吉原のくだりで「けんどん河岸といふも有」と一言が見られます。

あとには熊のように毛が生えた化け物が現れるという噂話が続き・・・

ひ~ッ(´༎ຶོρ༎ຶོ`)

 

しかし、うどんやそばが関わるけんどんについては触れられていません。

 

気を取り直してまとめます。

 「紫の一本」は、新吉原に"けんどん河岸"と呼ばれる場所があったとする一言がみられる史料です。

 

●藤田利兵衛「江戶鹿子」 ~ 見頓屋 貴重な最も古い記録のひとつ

1687(貞享4)年の藤田利兵衛「江戶鹿子」を確認してみました。

 

業種、場所、店名が次のように見られます。

ただし、場所しか書かれていない場合もあります。

  • 見頓屋
     堺町 市川屋
     中橋大工町 きりや
  • 同堤重
     堀江町 若なや
     本町
     新橋出雲町
  • 食見頓
     金龍山
     品川 おもだかや
     同所 かりかねや
     目黒
  • 饂飩 そば粉
     明神前 浄雲
     浅草 ひやうたんや
  • 手打そば切
     鈴木町横町 丹波屋与作

まず、けんどん屋と、けんどん屋の堤重ありの店が区別され、またけんどん屋とうどん、手打そば切屋がそれぞれ別の店として区別されていることがわかります。

  

そしてけんどん屋の項に続いて"同堤重"とあるのは、けんどんを手提げできる重箱入りで売る店だったのではないかと考えられます。

 

また1830年起稿、喜田川守貞「守貞漫稿」の「生業」では次のように説明されており、行燈に手打と書いていながら製麺を外注する例を鋭く指摘しつつ、二八そばを"駄蕎麦"と区別していることが見られます。

  • 「従来二八後ニ二十四文ノ物ヲ商フヲ駄蕎麥ト云 駄ハ惣テ粗ヲ云ノ俗語也駄ニモ行燈等ニハ手打ト記セ共実ハ手打ト云ハ別ニ精製ヲ商フ店アリ
    眞ノ手打蕎麥屋ニハ二八ノ駄ソバハウラズ」

そのため"手打そば切屋"は、十割蕎麦を売るお店だったのではないかと考えられます。

 

さらには1751(寛延4)年  日新舎友蕎子「蕎麦全書」下巻の「江戸中麵粉屋名寄」を、2006(平成18)年  藤村和夫『現代語訳「蕎麦全書」伝』で開いてみると次のようなくだりが見られます。

  • 「麵粉屋にて船打斗する也」
  • 「谷中感応寺裏門前黒田屋
     (中略)手前にて挽て製せざる麵店家へ毎日荷持をだし、そば粉を卸に遣すなり。(攻略)」

そのため"そば粉屋"は、自家製粉しないそば屋向けにそば粉を挽き売りしたり、また店によっては製麺して生舟に詰めて売る船打もする店があったのではないかと考えられます。

 

これらの内容を次の図にまとめてみました。

横軸が提供された料理や関係する食べ物で、縦軸が提供のスタイル・業態としています。

 

まとめます。

「江戶鹿子」はけんどん屋、けんどん堤重や食けんどんといった業種や業態を、うどん屋、手打ちそば切屋と区別したことが見られる、1687(貞享4)年ごろ当時に記録された史料です。

 

この、当時に記録したことがポイントです。 (๑˃̵ᴗ˂̵)و

 

●庄司勝富「洞房語園異本」 ~ 寛文期説1・けんどんそばは寛文ごろにはじまった

1720(享保5)年 庄司勝富「洞房語園異本」を、1807(文化4)年「洞房語園」求版本で確認してみました。

次のような内容が見られます。

  • 「けんどん」は、1662(寛文2)年に吉原で、かまびすしく客引きをする端た女郎に対して出来た呼び名であったこと。
  • 江戸町2丁目のうどんそば切を商う仁左衛門が、銀目5分づつに1人前の弁当としてそば切を仕込んで売っていたこと。
  • 「けんどんそば」は、吉原の端た女郎の安さになぞらえて、(仁左衛門の)安い弁当に名付けてから、世に広まったこと。

また、1907-1908年 岩本佐七「燕石十種」巻3の「洞房語園抄書」では、同じ寛文ごろの太鼓持ちなどの歌として、けんどんが含まれた歌詞も見られます。

 

「洞房語園異本」はけんどんがはじまったのは寛文ごろとしています。

ただ、吉原と女郎について書かれていることが何を言っているのかよくわかりません。(*˘ᵕ˘*)?

改めての機会に吉原について確認し、それからまとめてみたいと思います。

 

●財津種莢「昔々物語」 ~ 寛文期説2・弁当のうどんそば切はのびのびだよね~?

財津種莢(たからつしゅそう)「昔々物語」の"久保田氏本"を確認してみました。

実際には、1969(昭和44)年「日本庶民生活史料集成」第八巻・見聞記を参照しています。

添えられている解題ではこの本の成立が1732~1733(享保17~18)年と推定されており、また著者の財津種莢についてはどのような人物なのかがよくわからないとされています。

 

そのような史料の内容はというと随筆にあたり、80歳ごろに語る昔話を、 以前はこうだった、それ以降はこうだったといった調子で書かれたものとなっています。

 

侍の野遊びについての段落には次のような内容が見られます。

  • 侍が野遊びに出るのは、遊びではなく、山坂をかけ走る稽古のためである。
  • 野遊びの食べ物は、町で買い食いするのではなく、買った弁当を持参していた。
  • 持参した食べ物には"まんぢう"、"さつさ餅"、"焼餅"があり、皆が食べていた。
  • 70年以前は弁当の"うとんそば切"を食べる旗本はいなかった。
  • 1664(寛文4)年に"けんとんそば切"というものができ、下々が買って食べたが、旗本で食べる者はなかった。
  • 近年は身分が高い人まで"けんとんそば切"を食べるようになった。

また西瓜の段落に次のような内容が見られます。

  • 近年は身分が高い人まで"けんどんそば切"を食べるようになり、結構な座敷にも出され、"大名けんどん"などと言って作るようになった。

そして奥書に、新見正朝の著である旨が朱書として見られます。

 

どうやら、うどんそば切が店で作られるようになった後、うどんそば切りのテイクアウトが"けんどんそば切"として1664(寛文4)年に誕生し、そして大名へのデリバリーが"大名けんどん"として生まれた、ということのようです。

 

◎写本により著者の認識が新見正朝から財津種莢へと改められる

ところで、この書には書名や文章が違っている数々の写本があることが知られており、次のような文献に全体像が詳しく考察されています。

  • 1989(平成元)年 森銑三「森銑三著作集」第十一巻の「むかし〳〵物語考」
    (1944(昭和19)年 森銑三「古書新説」にも収録)
  • 「日本庶民生活史料集成」第八巻の解題と註記 

その中で森銑三は、文章の構成として、一文字下げた註記と見られる段落が見られるが、註記を含む系統の写本と、含まない写本があることに触れています。

しかし、けんどんなど書かれている内容について言及した研究結果はみつけられませんでした。

そこで「近世風俗見聞集1」に収録された"黒川氏本"を、1981(昭和56)年「続日本随筆大成」別巻1の財津種莢「むかし〳〵物語」で確認してみました。

 

久保田氏本に対して次のような内容が見られます。

  • けんどんそば切や大名けんどんで説明されている内容は同じである。
  • 大名けんどんに関する内容が侍の野遊びの段落に集約され、西瓜の段落ではけんどんそば切の記載が見られなくなっているなど、表現に違いが見られる。
  • 奥書に、新見正朝は行年81歳で、享保17子年に書き集められた旨が見られる。

つまり、けんどんについての表現は、久保田氏本よりも近世風俗見聞集本の方が洗練されたものとして、違った表現で見られます。

 

また、1885(明治18)年 近藤圭造編「存採叢書」に収録されている財津種莢「昔々物語」でも同じ表現が見られました。

ただし奥書などは次のようなものになっています。

  • 奴の段落などに、寛延3年ごろに書かれた註記と思われる段落がみられる。
  • 奥書は、著者を八十歳の財津種莢翁とし、40、50年以前のことで聞き覚えたり、壮年のときに見ていたことを書いたものを、小倉孟雅先生が写し、それを見せてもらって野田瓊華が1749(寛延2)年に写したとされている。
    その後、1750(寛延3)年、1770(明和7)年、1885(明治18)年に再版された奥書が見られる。

続いて、"天保年間本"を1974(昭和49)年「日本随筆大成」第二期第四巻(新刊)の財津種莢「八十翁疇昔話」で確認してみました。

1928(昭和3)年版では新見正朝が著者とされ、序文が省かれて第二巻に収められています。

なお、国会図書館所蔵の天保8年版はその原文に相当するものと思われ、著者は新見正朝とされています。

 

久保田氏本に対して次のような相違点が見られます。

  • 70年以前のうどんそば切についてのくだりが見られない。
  • 1664(寛文4)年にはじまったのは"うどんそば切"だと説明し、続く文章で"けんどん"にすり替える表現が見られる。
  • 西瓜の段落に大名けんどんが残されているが、けんどんそば切の説明は侍の野遊びの段落へ集約されている。
  • 奴の段落などに、寛延3年ごろに書かれた註記と思われる段落がみられる。
  • 奥書に、新見老人むかし〳〵物語、老人は享保のはじめに八十余歳で、寛延年間に書いた、といった旨が見られる。

つまり、天保年間本では、けんどんの始まりが何年なのかは説明されておらず、それどころか1664(寛文4)年にはじまったのはうどんそば切とし、久保田氏本が説明するけんどんのはじまりとは内容が違っています

 

◎うどん通なら知っておきたい ~ 寛文期説は「昔々物語」。「八十翁疇昔話」ではない。

けんどんに関わる内容を中心に相違点をまとめると次のようになります。

  • 1664(寛文4)年にはじまったのはけんどんそば切りとする本と、うどんそば切とする本がある。
  • 寛延3年ごろの註記が見られる本と、見られない本がある。
  • 同じ文章が複数個所に見られるほんと、集約されている本がある。
  • 著者を新見正朝とする本と、財津種莢とする本がある。
  • 書かれた年を享保17年とする本と、寛延年間とする本がある。

これを、勝手ながら系統図として整理すると次のようにシンプルに捉えられることがわかります。

ひとまず、まとめます。

「昔々物語」は遅くとも1664(寛文4)年にけんどんそば切が始まったことを、書物が成立したと推定されている1732(享保17)年ごろに過去を振り返って記載していることがわかる史料です。

しかしいくつもの写本があり、寛文4年からはじまったのはうどんそば切と書かれているなど、異同をもつ「八十翁疇昔話」も見られ、著者や成立年など確かなことがよくわからない面も持っている史料です。

うどんに通じる者としては、1700年代に書かれた「昔々物語」がけんどん屋の始まりとして現代の通説となっている寛文期説の根拠の一つであり、同一本とされる1800年代に書かれた「八十翁疇昔話」は誤って写本されたようであり、寛文期説は見られない、と知っておきたい史料でもあります。

 

 さて、なぜ身分によって食べる時期に違いがあったのでしょうか。

また、どのような器でけんどんは扱われていたのでしょうか。

そうしたけんどんの内容について関心が高まるところですね。

 

ところで、これらの本は70年前を振り返った昔話として書かれているわけですが、自分なら日記や手記に書き残していたとしても、それほど以前のことを確かなものとして語れないだろうなと思います。

すごいね、翁!٩(๑❛ᴗ❛๑)۶ 

 

次回は「洞房語園」を理解する

長くなりましたので、今回はこのあたりで一区切りにしたいと思います。

次回は、吉原遊郭の独特な文化が絡む「洞房語園」を取り上げます。

 

 

ところで、こうして足しげく図書館へ通って原文を確認する時代も、私が最後になるのかもしれませんね。

お出口リンク

 

自ら学ぶならこちら!


資料:

 (参照している文献が多く、翻刻の掲載が間に合わない割愛させていただいています)


調査文献: 

 

けんどん関連

  1. 1659(万治2)年 田中文内「見ぬ京物語」
  2. 1682(天和2)年ごろ 戸田茂睡 「紫の一本」 1714(正徳4)年版
  3. 1687(貞享4)年 藤田利兵衛「江戶鹿子」
  4. 1693(元禄6)年 井原西鶴「西鶴置土産」
  5. 1720(享保5)年 庄司勝富「洞房語園」 1807(文化4)年版(洞房語園異本)
  6. 「洞房語園抄書」(1907-1908年 岩本佐七「燕石十種」巻3)
  7. 1732~1733(享保17~18)年ごろ成立 財津種莢「昔々物語」 "久保田氏本"
    1969(昭和44)年 「日本庶民生活史料集成」第八巻・見聞記による。
  8. 1732~1733(享保17~18)年ごろ成立 財津種莢「むかし〳〵物語」 "黒川氏本"
    1981(昭和56)年 「続日本随筆大成」別巻1による。
    (「近世風俗見聞集1」収録)
  9. 1837(天保8)年 新見正朝「八十翁疇昔話」 "天保年間本" 国会図書館所蔵
  10. 1928(昭和3)年「日本随筆大成」第二期第二巻
  11. 1974(昭和49)年「日本随筆大成」第二期(新刊)第四巻
  12. 1989(平成元)年 森銑三「森銑三著作集」第十一巻の「むかし〳〵物語考」
  13. 1734(享保19)年 菊岡沾凉「本朝世事談綺」巻之一
  14. 1751(寛延4)年 日新舎友蕎子「蕎麦全書」
    2006(平成18)年 藤村和夫『現代語訳「蕎麦全書」伝』による。
  15. 1775~1822年(安永4‐文政5) 大田南畝「一話一言」巻二十 西川(權)清左衛門〈○中略〉
  16. 1781(天明元)年 二鐘亭半山「見た京物語」
    1969(昭和44)年 原田伴彦「見聞記」による。
  17. 天明期(1781~1789年) 越智久為「反古染」
  18. 1825(文政8)年 「けんどん争ひ」(国書刊行会「新燕石十種」 第1巻)
  19. 1826(文政9)年 高屋知久「還魂紙料」下 慳貪
  20. 貞享元禄初年 「酒餅論」(「室町時代物語大成 第七」)
  21. 1829(文化6)年 大田南畝 「玉川砂利」の「蕎麦の記」
  22. 1830(天保1)年 喜多村信節「嬉遊笑覧」
  23. 1830年起稿 喜田川守貞「守貞漫稿」
  24. 1850(嘉永3)年 斎藤月岑「武江年表」・正編
  25. 1908(明治41)年 「蜀山人全集」巻3
  26. 1909(明治42)年 「続燕石十種」第一巻
  27. 1975(昭和50)年 新島繁「蕎麦史考」
  28. 1979(昭和54)年 「室町時代物語大成」第七
  29. 2002(平成14)年 新島繁「蕎麦年代記」
  30. 2003(平成15)年  吉見孝夫「『嬉遊笑覧』が引用する『衣食住の記』」

吉原関連

  1. 1657(明暦3)年 「新添江戸之図」
  2. 1671(寛文11)年 遠近道印「新板江戸外絵図. 深川、本庄、浅草」
  3. 1670(寛文10)年 遠近道印「新板江戸大絵図. 麹町,日本橋,京橋,内桜田,芝筋迄」
  4. 1642(寛永19)年 「あづま物がたり」
  5. 1658(万治1)年 「芳原細見圖」
  6. 1720(享保5)年 蝶郎「吉原丸鑑」
  7. 1725(享保10)年 「吉原細見図」
  8. 1732(享保17)年 「涼しさや揚屋も茶屋も男女川」
  9. 1739(元文4)年 「吉原細見」
  10. 1740(元文5)年 「吉原細見」
  11. 1745(延享2)年 「吉原細見」
  12. 1762(宝暦12)年 「吉原細見道中巣子陸」
  13. 1775(安永4)年 「吉原細見」
  14. 1776(安永5)年 「名華選」
  15. 1781(安永10)年 「五葉の松」
  16. 1783(天明3)年 「吉原細見五葉の松」
  17. 1795(寛政7)年 「吉原細見」
  18. 1825(文政8)年 「吉原細見」
  19. 2010(平成22)年  江戸吉原叢刊刊行会編「江戸吉原叢刊」

御触書関連

  1. 昭和16年 「東京市史 産業編」第3巻
  2. 昭和29年 「東京市史 産業編」第4巻
  3. 昭和31年 「東京市史 産業編」第5巻
  4. 昭和33年 「東京市史 産業編」第6巻
  5. 昭和35年 「東京市史 産業編」第7巻
  6. 昭和37年 「東京市史 産業編」第8巻
  7. 昭和42年 「東京市史 産業編」第11巻
  8. 昭和43年 「東京市史 産業編」第12巻
  9. 昭和46年 「東京市史 産業編」第15巻
  10. 昭和51年 「東京市史 産業編」第20巻
  11. 平成7年 「東京市史 産業編」第39巻
  12. 平成18年 「東京市史 産業編」第47巻
  13. 平成19年 「東京市史 産業編」第48巻
  14. 平成21年 「東京市史 産業編」第50巻
  15. 平成23年 「東京市史 産業編」第52巻
  16. 平成25年 「東京市史 産業編」第54巻
  17. 平成26年 「東京市史 産業編」第55巻