· 

けんどんの歴史(2)

前回に引き続き、けんどん屋の歴史・第二回を書きます。

今回は「洞房語園異本」について、大きな寄り道として吉原遊郭の歴史を確認し、けんどん屋のはじまりとして書かれた史料の理解を深めたいと思います。

 

今回のポイントはこちら。

 ☑ 吉原遊郭について、調べてみました!

 ☑ 吉原遊郭の知識から「洞房語園異本」のけんどんの説明を理解します!

 ☑ 「洞房語園異本」ではうどんのことはよくわかりませんでした・・・!

お急ぎの方は、まとめの回へどうぞ。



吉原遊郭の概要を知り、寛文説の理解を深める

●女郎が客引きすること、局女郎より劣る事、端傾城の安さ、の意味を確認したい

「洞房語園異本」を見てみます。

実際には1720(享保5)年 庄司勝富「洞房語園」の1807(文化4)年求版本を参照しています。

けんどんのはじまりは次のような吉原遊郭に関係する内容とともに記載されています。

  • 1662(寛文2)年に吉原の女郎の呼び名として"けんどん"ができたのがはじまり。
  • 喧(原文では女片に宜)は、往来の人を呼声が喧(かまびす)しいこと。
  • 鈍は、局女らより遥に劣って鈍くみえること。
  • 端傾城の下直になぞらえてけんどんそばと名付けて世に広まった。

まず、吉原遊郭とはどのようなもので、いつどこに始まったものなのでしょうか。

 

検証や細部については専門書にお任せするとして、ここでは「洞房語園異本」の理解に役立つ範囲で簡単に確認していきたいと思います。

 

●日本橋から奥浅草へと江戸時代の初期に移転した廓(くるわ)・吉原

吉原遊郭はいつ、どこに、あったものなのかを見てみます。

 

1590(天正18)年に徳川家康が江戸へ入場し、江戸の低地を埋め立て、小石川上水を作り、江戸城下を開拓していきます。

1603(慶長8)年に、関ケ原の戦いに勝った徳川家康が江戸幕府を開き、駿河台や御茶の水の丘を切り崩して現在の日本橋浜町から新橋付近の埋立てるなど、海岸低地の開発を進めて街を発展させていきます。

1605(慶長10)年ごろに、翌年から始まる江戸城の大改築のため、日本橋周辺の土地を御用地として召し上げて屋舗替(やしきがえ)を行い、大名を住まわせたことで賑わっていきます。

これに傾城屋たちが目をつけ、それまで江戸の城下にはなかったとされる傾城町を作ることを願い出ます。

1618(元和四)年11月、そうした願い出が承認されて、日本橋葺屋町の北はずれ(現在の日本橋人形町)の湿地帯が埋め立てられた場所で、女郎屋が集まった吉原の営業が始まります

例えば、1657(明暦3)年正月の「新添江戸之図」では明暦2年ごろと思われる江戸の地図があり、堀で囲った区画として吉原が見られます。

 

1653(承応2)年、江戸の人口増加に対応するために現在の多摩川の上流から玉川上水がひかれます。

1656(明暦2)年、また城下の土地不足で区画整理がたびたびおこなわれ、吉原も"処替"の対象になり、浅草日本堤か本所のいずれかの移転先の選択が迫られ、浅草日本堤への移転を決断します。

1657(明暦3)年3月2日~同4日、偶然にも江戸を広範囲に焼き尽くす大火災(明暦の大火)が発生し、吉原も全焼したたため、浅草山谷のあたりの仮屋で営業を続けます。

1657(明暦3)年9月に浅草日本堤(現在の奥浅草・台東区千束)の元龍泉寺領の田んぼを埋め立てた場所で新しい吉原の営業がはじまります

この奥浅草の吉原を”新吉原”と呼び、日本橋にあった吉原を”元吉原”とも呼ぶようになります。

 

また当時、女郎のことを美女を指す言葉として「傾城」(けいせい)と言い、女郎屋を"傾城(けいせい)屋"とも言っていました。

例えば、古地図の1671(寛文11)年 遠近道印「新板江戸外絵図. 深川、本庄、浅草」では"傾城町"という表現が見られます。

やはり新吉原も堀で囲った区画として表現されています。

 

そして、1670(寛文10)年 遠近道印「新板江戸大絵図. 麹町,日本橋,京橋,内桜田,芝筋迄」では日本橋の元吉原は見られなくなっています。

 

これらのことから、元吉原も新吉原もまさに郭(くるわ)として存在し、江戸の発展当初に日本橋にあった元吉原から、世界有数の大都市へと発展していく中で隅へと追いやられるように奥浅草日本堤の新吉原へと移転したことを絵図で知ることができます。

 

ちなみにその後、明治政府や第二次大戦後に駐留したGHQにより娼妓の取締りが繰り返されるものの吉原での実態は変わらず、1958(昭和33)年に売春防止法が施行されたことにより、売春を伴う吉原遊郭は終わることになります。

吉原遊郭に340年もの歴史があったとは驚きですね。

●遊郭には並の"見世遊び"と、馴染みの上客の"揚屋遊び"があった

郭の中に目を向けてみます。

 

吉原には遊宴を伴う"揚屋遊び"があり、女郎たちは踊りなどの遊芸で宴を盛り上げていたようです。

そうした遊びではまず"揚屋茶屋"を訪ねて案内を受け、関係する"揚屋"の座敷で酒宴・遊宴を楽しみ祝儀を撒いて、それから"大見世"(妓楼)の座敷へ向かい、踊りができる多芸な女郎である"太夫"と布団で過ごします。

このような遊びには多くの場と人たちが関係し、代金に祝儀をつけて異常に高額なお金を落として豪遊する馴染みの上客たちが居ました。

大名が接待にも利用したともいわれますが、姫路藩藩主・榊原政岑は太夫を見受けするに至り徳川吉宗の怒りをかって越後高田へ飛ばされたなど、はまった人もいたようです。

また江戸の商業が発展してからは紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門といった豪商の散財も言われるところです。

しかし、異常に贅沢な遊びは浅草の地では長続きせず"揚屋"は衰退していきます。

 

一方、"揚屋茶屋"に代わる"引手茶屋"で一服と称して案内を受け、"見世"へ向かって女郎と過ごすこともできました。

また、そうした中之町の茶屋を介さずに直接横町の"見世"へ向かい、"張見世"の女郎を見定めて、"部屋"へ上って女郎と過ごすこともできたようです。

さらには、羅生門河岸の小さな"見世"の前を通り、自ら客引きする安女郎に強引に連れ込まれ、女郎と過ごすことになった客もいたようです。

つまり遊宴をせずに女郎と布団の中で過ごすだけの並の客たちもいました。

このような大衆的な遊び方については"揚屋遊び"ほどの確かな記載を見つけられなかったため、時代ごとの実態を正確に伝えることが難しいと考え、簡単な記載とさせていただいています。

 

なお、茶屋には"五十間茶屋"、"七軒茶屋"、"編笠茶屋"といった呼び名もあったようですがそれぞれの説明を割愛します。

同様に、見世にも"大見世"、"中見世"、"交り見世"、"小見世"、"銭見世"、"散茶見世"、"局見世"、"長屋見世"、"鉄砲見世"や"新見世"といった呼び名もあったようですが、説明を割愛します。

 

ところで、江戸時代には細見図や評判記といった書物も出版されます。

遊郭での見世や女郎を一覧し、懐事情に応じて遊ぶ助けになったようです。

それは決して安くはない女郎を選ぶのに熱心だったのでしょうか。

あるいは新人女郎の情報が求められていたのでしょうか。

それとも惚れた女郎の"住み替え"を追いかけていたのでしょうか。

 

男ってのはいつの時代もしようがないものですなぁ。٩(๑´o`๑)۶

●江戸後期には太夫を失う吉原遊郭

では、吉原遊郭にはどのような女郎たちがいたのかを、女郎の分類から追ってみます。

 

まず、2010(平成22)年 江戸吉原叢刊刊行会編「江戸吉原叢刊」で1642(寛永19)年の「あづま物がたり」を確認すると、"たゆう"、"かうし"、"はし"といった元吉原での女郎の分類が見られます。

続いて、新吉原では"太夫"、"格子"、"濽茶"、"局"、"次女郎"や、"むめ茶・うめ茶"、"五寸局"、"奈三局"、さらには"さんちゃ 付廻"、また"よびだし 新造附"、"新造附"、"見世出居 新造附"といった分類がみられます。

これらの出版年と史料名を資料覧に記載しています。

 

そうした名前を追ってみると、局女郎の立場が1600年代とそれ以降の年代で変わっていくなどの位置づけの変化や、局に"五寸"や"並"が付いたりする揺らぎが見られます。

それぞれの言葉がどの時代に対して使われているのか、読む際には注意が必要なようです。 

そして、女郎の分類のそれぞれの実態については、どうも確かなところがよくわからない点もあり、ここでは名を挙げるにとどめたいと思います。

 

ところで、そうした呼び名がついた経緯については、1720(享保5)年 蝶郎「吉原丸鑑」に次のような内容が見られます。

実際には「江戸吉原叢刊」第5巻を参照しています。

  • もともとは"太夫"、"格子"、"局"の3つの分類だった。
  • 太夫は遊女のつかさで、古紺色里のかざりである。
  • 後に局は"5寸"、"3寸"、"2寸"と分かれ、布の端切れになぞらえて"きれを買う"と言った。
  • 寛永(1624~1644年)の中ごろには"3寸"、"2寸"はなくなった。
  • 後に廓の東西の河岸に、"端た女郎"を置き、"切れ"のつぎに出した意で"次(なみ)"と名付けた。
  • 江戸中の茶屋に隠れていた女郎を吉原に集め、区別するために"散茶"と名付けた。
  • 貞享(1684~1688年)の終わり、元禄(1688~1704年)の初めに五寸の局を1か所に集め、"散茶"になぞらえ"うめ茶"と名付けた。
  • 五寸局より以下、東西の河岸、次女郎のうわさは評判記を省略した。

その後、元吉原ができてから150年ほど経った1800年代に入るころには"太夫"や"格子"が消滅して名前が一新され、遊宴を伴う遊びの市場は成り立たなくなったようです。

 

●"けんどん"女郎は新町と京町の両岸にできた"次"女郎

「洞房語園異本」では"けんどん"女郎の呼び名ができたのは寛文ごろと説明しています。

そのことから、奥浅草の新吉原での出来事だった、ということになります。

 

また、「局女ら」に着目して新吉原の吉原細見の類を確認すると、1658(万治1)年の「芳原細見圖」に太夫、格子、散茶に次いで"局"女郎が見られます。

それ以降は五寸や並といった言葉とあわせて呼ばれるようになりますが、シンプルに局と称している点で古さを感じます。

どうやら、執筆時点に使われていた用語が「洞房語園異本」に反映されているようです。

 

そして、"けんどん"の名前については、指名で呼び出されたり、"張見世"で指名を待つ価格帯の女郎ではなく、自ら声をかけて客引きをする女郎であり、また大衆向けの女郎である"局"女郎よりも劣る女郎を指してできたようです。

ここで「吉原丸鑑」の説明に目を向けると5寸局のあとに廓の両岸に置かれ、評判記では取り上げるほどでもないとされている"次"女郎がみられます。

また、1682(天和2)年ごろ成立と見られる戸田茂睡 「紫の一本」では廓の河岸に"けんどん河岸"があったと一言触れられており、さらには1680(延宝8)年「吉原人たばね」と「吉原あくた川」の細見図で新町と京町の河岸に「けんどん」「けんとん」の表現が見られます。

これらのことから「洞房語園異本」がいう"けんどん"女郎は"次"女郎を指してできた言葉だった、と考えられます。

 

そしてまたそば切との関係では、"次"女郎は5寸局を下回る最安価格帯の"切れ"="端"の女郎であったことから、端の傾城の安さになぞらえて、といった表現がとられたようです。

 

とはいえ「洞房語園異本」のこの簡単な説明では、"安さ"に目がいってしまいます。

しかし実際は、"切れを買う"といって安い女郎を買う意味があることにかけて、"安いそば切を買う"→"切れを買う"→"安い女郎を買う"→局女郎・次女郎→"けんどん女郎"、といった具合に、言葉の読みで名付けられたことを言っているようです。

うどんが説明から省かれるのも納得で、なんだか腑に落ちた気がしますね(๑˃̵ᴗ˂̵)و

 

「洞房語園異本」の"けんどん"の段落にみられる吉原については、理解できるようになりました。

続いて、まだ残る疑問について確認していきたいと思います。

目撃していないことによる信ぴょう性の問題がある

●"けんどん"の呼び名を寛文に記録した史料がみつからない

「洞房語園異本」の著者、庄司勝富は1668(寛文8)年生まれとされており、"けんどん"の呼び名ができたと説明している1662(寛文2)年は生まれるよりも前にあたります。

さらにはそれらを58歳ごろに書いたことになります。

 

さて、他に事実を目撃して書いた史料はないものでしょうか?

探してみると、1680(延宝8)年に出版された二つの細見図、「吉原人たばね」と「吉原あくた川」を見つけることができました。

 

 「吉原あくた川」では女郎の評判として「一 けんどんへつひりむし」などとあり、また「吉原くるわ百とう」の項でも「一 げびたる物のかしら けんどん女らう」、「一 たかきものゝ頭 けんとんのあけせん」などといった表現で見られます。

ひどい悪態をつく中で、"けんどん"女郎が挙げられており、客側からの蔑む表現だったのかもしれません。

  

しかし1665(寛文5)年、はん木や又右衛門「吉原大全新鑑」にもみられないようですし、寛文に書かれた史料を見つけることができませんでした。

つまり、遅くとも延宝のころ(1673~1681年)には"けんどん"女郎の言葉が使われていたことを「吉原あくた川」と「吉原人たばね」で確認できるものの、「洞房語園異本」がいう寛文ごろを直接的に裏付ける史料はみつけられず、信ぴょう性には疑問が残ります。 

 

●江戸町2丁目の仁左衛門のうどんそば切屋がみつからない

ところで、「洞房語園異本」がけんどんそば切となづけて弁当を売り始めた江戸町2丁目のうどんそば切屋・仁左衛門を当時に記録した史料はないものでしょうか?

江戸町2丁目は新吉原の通りの地名ですので、これをきっかけに史料を確認してみます。

 

1665(寛文5)年「吉原大全新鑑」の細見図を見てみますと、なんと江戸町2丁目に仁左衛門の名を見ることができます。

しかし、女郎の名と共に"見世"として書かれています。

うどんそば切屋の仁左衛門は確認できませんでした。

 

また1660(万治3)年の「吉原鑑」でも同様の記載となっています。

しかしこの書は京都島原について書かれた1656(明暦2)年「ね物がたり」の改ざん本とされており、そもそも事実を確認するための参照には適さないようです。

 

他の細見図の類を、「洞房語園異本」が書かれた時代まで追ってみると、1720(享保5)年「吉原丸鑑」などにうどんやがみられます。

しかし仁左衛門どころか、"そばや"や"けんどん屋"といった記載もみつけられませんでした。

 

これらのことから、「洞房語園異本」がいううどんそば切屋が吉原に実在したのかはよくわかりません。

 

うどんがどこかへ・・・

●そば切を買う、切れを買う、安女郎を買う。うどんはどこへ?

「洞房語園異本」は1662(寛文2)年ごろに奥浅草の新吉原遊郭で"けんどん"女郎という呼び名ができたとし、その由来を、太夫(たゆう)や格子(こうし)といった高級な女郎はもとより散茶(さんちゃ)や局(つぼね)といった女郎よりも安い、次(なみ)女郎の鈍さと、その自ら客引きする呼声のうるささであったと説明し、ほかに太鼓持ちの歌が当時にあったと添えています。

また、同じ吉原の江戸町2丁目にうどんそば切屋があり、弁当のそば切を安く売りだすにあたり、安い女郎の名をとって、けんどんそばと名付けて広まった、と説明しています。

 

しかし、そうした説明は、著者である庄司勝富が60歳近い1720年ごろに、生前のことを書いたものとなっています。

そして、寛文当時の他書を探してみても"けんどん"女郎や江戸町2丁目の仁左衛門の店を確認できないことから、「洞房語園異本」に書かれていた通りなのかはよくわからない史料でもあります。

また仮に店が実在したとしても、「洞房語園異本」がいう、うどんそば切屋がそば切の1人前の弁当を作ったとする表現では、うどんがどう扱われたのかはみられません

 

余談ですが、元吉原は庄司甚右衛門の幕府への願い出が許可されて作られ、甚右衛門は名主を務めたと言われます。

またその6代の後裔で妓楼「西田屋」の楼主と新吉原江戸町1丁目の名主を務めるのが「洞房語園異本」の執筆者、庄司勝富とされています。

多額の金を扱う楼主であり、吉原にとっての利害関係の当事者にあたる執筆者が、フェアに真実だけを書くものでしょうか。 

そうした史料であることを念頭に置いて読む必要があるかと思います。

 

●参考:写本について

まず「洞房語園異本」は既に原本が失われているそうです。

今回参照した1807(文化4)年求版本以外の写本では、けんどんの項はどのように見られたかを補足しておきます。

 

1825(文政8)年の奥付がある国会図書館所蔵の「洞房語園」には同様の内容がみられました。

 

また、「燕石十種」第3巻では「洞房語園異本」に続く「洞房語園抄書」と題した付録に、同様の内容が見られる翻刻が収録されています。

 

他に、国会図書館所蔵の「洞房語園別本」の表紙を持つ本にはけんどんの項がみられませんでした。

お出口リンク

記事関連書籍

 

資料:

 

女郎の分類・元吉原

  • 1642(寛永19)年「あづま物がたり」に"たゆう"、"かうし"、"はし"。

女郎の分類・新吉原

  • 1658(万治1)年「芳原細見圖」に"太夫"、"格子"、"濽茶"、"局"、"次女郎"。
  • 1720(享保5)年「吉原丸鑑」に"太夫"、"格子"、"さん茶"、"むめ茶・うめ茶"、"五寸局"、"次"。
  • 1725(享保10)年「吉原細見図」に"太夫"、"格子"、"さんちや"、"むめちや"、"五寸局"、"奈三局"。
  • 1732(享保17)年「涼しさや揚屋も茶屋も男女川」に"太夫"、"格子"、"さんちや"、"むめちや"、"徒本年"。
  • 1739(元文4)年「吉原細見」に"太夫"、"格子"、"呼出"、"散茶"、"四寸"、"並局"。
  • 1740(元文5)年「吉原細見」に"太夫"、"こうし"、"さんちや"、"はし四寸"、"同 つぼね"。
  • 1745(延享2)年「吉原細見」に"太夫"、"かうし"、"さんちや"、"さん茶"、"四寸"、"徒本゛祢"。
  • 1762(宝暦12)年「吉原細見道中巣子陸」に"太夫"、"格子"、"さんちや"、"同 付廻"、"六寸"。
  • 1775(安永4)年「吉原細見」に"太夫"、"格子"、"さんちや"、"同 付廻(つきまわし)"、"六寸"。
  • 1776(安永5)年「名華選」に"太夫"、"格子"、"さんちや"、"同 付廻"。
  • 1781(安永10)年「五葉の松」に"太夫"、"格子"、"さんちや"、"三十目付廻"。
  • 1783(天明3)年「吉原細見五葉の松」に"太夫"、"格子"、"よび出しさんちや"、"さんちや"、"三十目付廻"。
  • 1795(寛政7)年「吉原細見」に"太夫"、"格子"、"よび出し"、"さんちや"、"付まハし"。
  • 1825(文政8)年「吉原細見」に"よびだし 新造附"、"新造附"、"見世出居 新造附"。

 

他に"しんそう"、"座敷持"、"部屋持"、"片しまい"、"昼三"、"昼夜"、"夜斗"といった表現も見られますがここでは割愛。

上記、2010(平成22)年 江戸吉原叢刊刊行会編「江戸吉原叢刊」などを参照。