前回に引き続き、けんどん屋の歴史・第4回をお届けします。
今回は、1700年代の史料から「酒餅論」、1800年代の史料・前編として「けんどん争ひ」「還魂紙料」を確認していきます。
1800年代はもはやけんどん屋を目撃できなくなっており、けんどん屋のはじめは引用でしか語ることができず、けんどん屋についても人から聞いた内容でしか書くことができない時代になっています。
そのため、続々と「昔々物語」が引用され始めるのですが、そうした史料に書かれている内容がどの書を引用したかを補足することを心掛け、ポイントがわかるように書き残しておきたいと思います。
今回のポイントはこちら。
☑ よくわからなかった、ことがよくわかる大人の喧嘩「けんどん争ひ」の意味を知ります!
☑ 後に引用がみられる「還魂紙料」に書かれたけんどんについて理解を深めます!
☑ 意味不明な「酒餅論」にはやはり意味がなかった!
お急ぎの方は、まとめの回へどうぞ。
1800年代はけんどん屋さえ目撃せずに書いている
●「酒餅論」 ~ 酒 vs 餅
「還魂紙料」で引用されている「酒餅論」を1979(昭和54)年「室町時代物語大成 第七」で確認してみました。
「室町時代物語大成 第七」の「酒餅論 上」の引用を示します。
- さて、めんるひの長せんぎ。のび〳〵にして、うどんげなり。そばきりたてられ、いかゞせん。さうめんどう成事は、いや。てき切麦こそ、おもしろけれとて、けんどんさうにぞ、見へにける。
意味がわかりません! ٩(๑´o`๑)۶
ところで、出版年について、1826(文政9) 高屋知久「還魂紙料」では万治の頃のように思われるものの寛文の印本だと推察していることがわかります。
しかし「室町時代物語大成 第七」の解題によると、「還魂紙料」の推察はあるものの寛文以降の書籍目録に見当たらないため、「慶長以来書売集覧」に従って元禄から享保とする、と見られます。
また「近代文学資料類従 仮名草子編26」によれば「貞享元禄初年の刊行本とす」といった説や享保16年とする説が紹介されています。
そうしたことから出版年や著者についてははっきりしたことがわかっていない史料です。
寛文の印がある版が見つかっていれば、この滑稽な本が「江戶鹿子」をさかのぼって寛文期説を確たるものにする重要な史料になるのですが、そうではない、ということがこの本の裏面のポイントだろうと思います。
まとめます。
「酒餅論」は、1700年代はじめから中ごろに麺類として"けんどん"という存在が捉えられていることを確認できるフィクションです。
●山崎美成(よししげ)、曲亭馬琴 「けんどん争ひ」 ~ 江戸時代に記録された喧嘩
◎箱ひとつからはじまった、1800年代の知的な喧嘩
好間堂(山崎美成)と曲亭(瀧澤馬琴)の「けんどん争ひ」を1909(明治42)年 国書刊行会「新燕石十種」 第一巻で確認してみました。
1824~1825(文政7~8)年、上野の不忍の池が見える淡々亭で「耽奇会」と名付けた会合が毎月開かれました。
その会合は古書画や古器財などを持ち寄り、その名称などが考察されています。
あるとき、大名けんどん箱が持ち寄られ、その考察で山崎美成(よししげ)と瀧澤馬琴が互いの主張を書面で交わします。
その内容が「けんどん争ひ」と題した一冊にまとめられ、「兎園小説別集」に収録されました。
まとめます。
「けんどん争ひ」は、好間堂(山崎美成)と曲亭(瀧澤馬琴)がけんどん箱から想像される数々の推理をぶつけ合って喧嘩していることがわかる史料です。
◎見ぬ見頓のはじまり、見た見頓屋、見ぬ見頓屋
ところで、日新舎友蕎子は1751年にはけんどんそば切を食べたことを「蕎麦全書」に記し、二鐘亭半山は1766年ごろに京でけんどん屋の看板が少なかったことを「見た京物語」に記録しています。
これに対し、好間堂(山崎美成)は1796(寛政8)年の生まれ、曲亭(瀧澤馬琴)は1767(明和4)年の生まれとされているのですが、けんどんとはそば切のみだったのか、あるいはうどんも含まれたのか、といったことまで推理しています。
どうやら1800年代に物心をついた人々にとってはけんどん屋は知らない存在になっているように見えます。
江戸の終わりの頃でも確かな事実を掘り起こすことはできず、けんどんについては限られてことしかわかっていなかったようだとわかります。
◎"手打"を結果で解釈する曲亭(瀧澤馬琴)
もう1点。
曲亭(瀧澤馬琴)はこの「けんどん争ひ」の中で、"けんどん"は箱に入れてところどころへ持ち出すの意味があり、"手打"は店売りのみの意味がある、と述べています。
つまりテイクアウトや出前ではなく、店で食べるものだということでしょうか。
ところで、1751(寛延4)年 日新舎友蕎子「蕎麦全書」では、そばを打つことを"手製"すると表現しています。
また製麺を外注する場合は"生舟"に盛って納めることから、"舟打"すると表現しています。
そして後の、起稿1837(天保8)年、脱稿1853(嘉永6)年、喜田川季荘「守貞謾稿」では次のようなことが書かれています。
- 二八、のちに二十四文の蕎麦を売ることを駄蕎麦と言った。
- 駄蕎麦でも行燈には「手打」と書いて、実は他の店で製麺したものを売る店があった。
- 真の手打蕎麦屋は二八のそばを売らない。
つまり駄蕎麦として売らず、舟打の麺も用いないのが真の手打と言っているのですが、では真の手打がどのような蕎麦だったのかはそれだけでは明確ではありません。
ただ、少なくとも曲亭(瀧澤馬琴)とは認識が違っているようです。
どちらが世間の実態に即していたのでしょうか。
●高屋知久「還魂紙料」 ~ 1820年ごろの「慳貪」は"しわい"という意味だった
1826(文政9)年 高屋知久「還魂紙料」下 慳貪を確認してみました。
「昔々物語」、「江戶鹿子」や短歌を引用した「還魂紙料」には次のような内容が見られます。
- 和讃の因果経には、人のものを欲しがるをけんといい、人にものを欲しがるものをどんとある。
- しかし今の慳貪とは"しわい"(けちな)ことを言う。
だから蕎麦切でも飯でも盛切りで出し、代わりをすすめないことをけんどんという。 - "飯慳貪"は末に現れた。
- 「昔々物語」に書かれていることは概ね違わない。
- "八文もりの けんどん屋"がみられる1668(寛文8)年の短歌が見つかった。
- けんどん堤重は大名けんどんのことを言い、正徳の頃(1711~1716年)まで流行って、今でもその器はあって茶箪笥に使う人もいる。
高屋知久は1783(天明3)年の生まれとされており、恐らく100年ほど前の出来事であるけんどん屋ができたときの事実を目撃していません。
しかし、寛文8年の短歌を発見することができたため、寛文にはじまった裏付けがみつかったという意味で、「昔々物語」に書かれていることは概ね違わないと述べたのだろうと考えられます。
また、「還魂紙料」を書いた時の"慳貪"の言葉の使われ方から意見を述べているように見えます。
そして、「昔々物語」の内容を違いないという意見を述べているのですが、「洞房語園異本」や「本朝世事談綺」は検討に含まれておらず、特にこれといった根拠の記載も見られません。
引き合いに出されている因果経の和讃も調べてみます。
「和讃」は仏教の経典を日本語に訳したもののことを言います。
因果経は仏典の代表格とされる「過去現在因果経」と中国では偽経として扱われた歴史を持つ「善悪因果経」のいずれかを指します。
何冊かの因果経の和讃を調べてみましたが「還魂紙料」で示されているフレーズで説明されている個所を見つけることができませんでした。
翻訳されているというのであれば、元の経典にもそのような表現があるのでしょうか。
そこで漢文の経典についても調べてみました。
1つは劉宋の求那跋陀羅(ぐなばっだら)が漢文に訳した「過去現在因果経」。
この3巻と4巻に「慳貪」の表現が見つかります。
また、「仏説善悪因果経」についても「慳貪」の表現を見つけることができます。
しかしいずれにも「還魂紙料」の言い回しのような文章であるとは判断できませんでした。
そしてまた、漢文の経典も翻訳されたものだそうです。
そこでサンスクリット語などの言語の経典も調べてみましたが、史料を見つけることはできませんでした。
これらのことから「還魂紙料」が引き合いに出した"法華経に見える慳貪"については今一つよくわかりませんでした。
まとめます。
「還魂紙料」は、寛文8年の短歌を発見し、「昔々物語」の寛文説を支持する材料が見つかったことを明らかにしている史料です。
また、1826年ごろの「慳貪」の言葉の意味を"しわい"(けちな)こととし、法華経などの慳貪とは意味が異なるとする意見が述べられた史料です。
ところで、三省堂「大辞林 第三版」の慳貪の説明は、「還魂紙料」に従っているのでしょうか。
次回は1800年代の史料・後編へ
内容が長くなってきましたので今回はこのあたりで区切りたいと思います。
次回はまだ残っている、1800年代の史料を追ってみたいと思います。