前回に加えて、けんどんやの歴史・補足の回をお届けします。
幕府の御触書を調べ、けんどん屋についてのヒントがないかを確認してみました。
史料「東京市史 産業編」を参照し、お触書に関わる史料を追ってみます。
今回のポイントはこちら。
☑ 1600年代前半は行商の振売にもうどんそば切がみられないがわかりました!
☑ 1670年ごろからうどんそば切に関わる触書があることがわかりました!
☑ 御触書には"けんどん"の名は使われていないようだとわかりました!
けんどん屋についてお急ぎの方は、まとめの回へどうぞ。
けんどん屋はなぜ寛文ごろにできたのか
ところで、1643(寛永20)年「料理物語」にはうどんやそば切、奈良茶飯のレシピが見られるのに、なぜ寛文ごろ(1661~1673年)までは店の記録が見られないのでしょうか。
幕府の触書にそのヒントがあるようなので、「東京市史 産業編」で確認してみます。
●幕府が商売を制限していた
◎幕府は商売を前例主義で禁じていた
1613(慶長18)年「浪人及農民ノ振売一銭売禁止」では次のような内容が見られます。
- 振売や一銭売りを浪人や農民がやることは禁止する。
- 従来から生業とする商人は町奉行の鑑札を受けること。
遅くとも1613年には"振売"という天秤棒に両端にたらいを下げて商品を入れて売り歩く商売があり、浪人や百姓によるぬけがけが問題視されたようです。
また一銭売りは、それ以前から"一服一銭"といって茶が売られており、天秤棒に水や火鉢を下げて茶を売り歩く商売をさしているのではないかと思われますので、従来から農間渡世などとして農業の合間に商売をしていた者たちは奉行所の認可のもとに商売できたものの、浪人や百姓の行商は禁止されたようです。
つまりは、町奉行が商売を取締る権力を持っており、町奉行の鑑札を受けるためには従来から生業であったという前例主義的・世襲的な建前を通せることが必要な社会だったことがわかります。
そうしたムードは、後の1766(明和3)年「明和三年七月 梶野新田他新田農間渡世書上」でも「飯うんどん農間渡世仕来罷在候」などと表現されることに影響しているのではないかと考えられます。
◎飢饉などにより、幕府が贅沢や商売を繰り返し禁じる
1643(寛永20)年「土民仕置方」では庶民の贅沢を禁じるためさまざまな禁止事項が挙げられ、次のような内容が見られます。
- (百姓は)温飩、切麥、素麺、蕎麦、切まんぢう、豆腐以下、五穀の費やしになるため、商売してはならない。
寛永の飢饉があり、着る服や酒の飲み方など、贅沢を個別に指定して禁じています。
つまり、庶民がうどんやそば切を食べる文化が既にあり、商売もされていたものの、食料を確実に調達する必要があったため、百姓が本業を差しおいてうどんそば切屋を営業することは社会的に認められていなかったことがわかります。
ただし、一説によるとこうした贅沢を禁じるお達しはあまり効果がなく、繰り返されたのだそうです。
●火気制限で、うどん・そば切の商売が明示される
◎1650年頃はうどんそば切の行商は見られず、大火後は火の扱いが制限されていく
1658(明暦4)年「振売業者録上」、1659(万治2)年の「振売札新発及特殊営業税」「振売検査」「諸商売鑑札」では幕府の認可を受けた"振売"やその他商売の業種が書かれており、その中に麺類に関する業種はみられません。
その後、1661(寛文元)年「茶店煮売店同行商法度」では次のような内容が見られます。
- 茶店と煮売は昼のみの商売とし、暮六つ以降の商売を禁止する。
- 夜中に火鉢や行灯に火をつけて煮売を行商することを禁止する。
- 夜中に不審な者は辻番が改める。
1661年には"茶店"と"煮売"が区別され、そして売り歩く商売行為が"行商"という言葉で認識され、居ながらの商売と区別されていることがわかります。
明暦の大火を経験した後に、これでは街が燃えることは防げないことはわかるはずですが、まずは行商の夜間の火の持ち歩きが制限されます。
◎1670年頃にそば屋が、1680年ごろにうどんの商売が見られるようになる
1673(寛文13)年 「浅草正直蕎麦売始」では、その言葉通り、浅草で正直そばが売り始められた、とされています。
御触書としてはここでそば屋が見られるようになります。
続いて1687(貞享3)年「饂飩其他携火行商禁止」では次のような内容が見られます。
- うどん、そば切など火を持ち歩いて商売することを禁止する。
- 居ながらの煮売、焼売は火を厳重に取り扱うこと。
- 若者が火を持ち歩いた場合は当人は当然として家主も罰する。
うどんやそば切を売るにあたり、火の持ち歩きが全面的に禁止されます。
つまり、担い屋台を持ち歩き、置いた場所で火を起こたり消したりしてから移動するようなやり方で、うどんそば切の屋台の商売が行われていたのだろうと考えられます。
ところで、御触書でうどんの商売がはっきりと見られるのはこの頃になりますが、"正直そば"に関係して、後の1751(寛延4)年 日新舎友蕎子「蕎麦全書」は次のようなことを説明しています。
- 浅草の"伊勢屋"が正直そばを売っている。
- 芝宇田川町の"正直屋"が元になっている。
- "正直そば"とは小麦粉を混ぜない十割蕎麦につけた商品名。
さて、"けんどん屋"の考察から1664(寛文4)年頃にはうどんそば切屋がけんどん屋と呼ばれるようになっていただろうことが見えています。
そしてその後の1673年ごろには他にもそば屋が出来ており、しかも温飩を本流として小麦粉に蕎麦を混ぜて売る店が多く、十割蕎麦を売る店が差別化を意図して商品名をつけて商売していた、ということになるようです。
●1700年代に入ると温飩商が組合を作り、組織的に権益を得る
1700年代に入ると、次のような御触書が見られます。
- 1728(享保13)年10月4日 「温飩商組合結成願」
- 1740(元文5)年6月8日「茶屋温飩屋旅人宿泊禁止」
- 1761(宝暦11)年12月18日「温飩杜氏宿素人宿条件付組合加入令」
うどん屋が組合を作り、組織的に市場を守ろうとします。
一方で、茶屋やうどん屋が部屋を持って私娼を抱え、旅籠の市場を荒らしたり風俗を乱すようなことを起こし、取締られています。
そのあとにも次のような史料が見られ、中には蕎麦があまりにも人気になり、食べ過ぎると中毒になるというフェイクニュースが駆け巡り、風説が取締られたことなどが見られます。
- 1794(寛政6)年 「附記 夜蕎麦渡世禁止」
- 1813(文化10)年「蕎麦中毒死風聞異説取締」
- 1839(天保10)年「御府内蕎麦切渡世御国恩冥加金五百両上納出願」
どうやら夜蕎麦渡世の排除や、そばが食べられなくなるようなマーケットへのダメージの回避するなど、温飩商組合が裏側で幕府へ働きかけ、組織的に利益を守る活動をしていたような印象です。
幕府の触書にはうどんそば切は見られる
幕府のお触書を確認した結果を次のようにまとめます。
- 1600年代前半にはうどんそば切屋の商売は見られない。
- けんどん屋が登場した寛文のはじめよりは後の、1670年、1680年頃から、うどんそば切屋が見られるようになる。
- 1700年代には温飩商組合が認められ、組織的に権益を保護する活動がなされていたように見える。
- 1600年代から1800年代のお触書では、"けんどん"という言葉は見られない。
ということで、御触書では1600年代前半には外食産業としてのうどんそば切は見られず、寛文ごろよりも後の1673年ごろからうどんそば切の商売が見られるようになり、遅くとも1687年ごろにはその屋台もあったことがわかります。
そして、1700年代に入るとうどんそば切屋が増えており、組合が作られて幕府の後ろだてによって、組合に属さない店の制限や経営に関わる風評を軽減する取り組みがとられていたことがわかります。
しかしそのいずれにも"けんどん屋"は見られませんでした。