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村山うどん - 東京 武蔵村山「笑乃讃」

東京 武蔵村山の「笑乃讃」さんで「肉きのこ汁うどん」をいただきました。

肉とキノコに (゚-、゚) じゅるっときますネ!

 

武蔵村山で代々、うどんに関わること50年ほど。

1991(平成3)年に先代が「えのさん」として創業、2013(平成25)年には2代目によって同敷地に新店舗が構えられ、四半世紀を超える歴史をもつ「笑乃讃」。

武蔵村山の小松菜など地野菜を盛り込む、つけスタイルの村山うどんを継承しつつ、創作うどんにも挑戦し、うどんを通じて武蔵村山を発信されている一店です。

和を感じる外観・雰囲気

黒い板材が用いられた明暗のコントラストがある壁面に、文字が元気に躍る看板が印象的な外観です。

人の和、笑顔の口を感じますね。

 

店内もテーブルや椅子に明るい色の木が使用されており、日常的な気軽さがあります。

 

テーブル席のほか、奥には小上りもあるのでしょうか。

またカウンターもあるため1人でも利用しやすくなっています。

具の満足度が高い村山うどんをいただく

「肉きのこ汁つけうどん」をオーダーし、8分ほどで運ばれてきました。

麺は茶色がかっており、やや平たいものとなっています。

口あたりはナチュラルな滑らかさが感じられ、ややぬちっとしています。

低アミロース小麦がブレンドされているような印象です。

  

風味としては粉類の薄い風味、小麦の風味があり、そして噛みしめると塩味を感じます。

 

武蔵野のうどんといえば古き良き時代のゴワゴワのうどんが盛られるイメージもありますが、こちらの麺には小麦の味わいを継承しつつ新しい感覚が取り込まれており、もにゅもにゅっといただくことができます。

では肉汁をいただいてみます。

 

肉きのこ汁では、つけつゆに豚肉と、きのこ類、きざみのお揚げが見えます。

この、大きめのお揚げさんと、チャーシューのような豚肉の存在感!

しっかり食べられる印象があってよいですね。

 

つけつゆのお味は、醤油とコク、シンプルな節の風味が感じられます。

武蔵野のうどんらしい印象を保ちつつ、コクを持たせる工夫が盛り込まれているのでしょう。

 

麺を半量ほどつけ汁につけていただくと、つけ汁と麺の両方の味わいを感じることができます。

添えられた茹で野菜もあわせていただきました。

 

うどんの麺は生地を踏み踏みして作られており、裏ではトントントンと麺を伸ばして切っている様子も見えます。

つゆもお店で作られた出汁の味ですから、これはもう本格的な手打ちうどんですね!

 

ごちそうさまでした! 

イオンモールも楽しいアクセス

武蔵村山は東京・新宿から30kmほど西、また付近の大きな街である立川からも7、8kmほどに位置します。

お店はイオンモールむさし村山の西側駐車場すぐ前にあり、イオンモールむさし村山を目標に車で訪ねるのが便利かと思います。

  

鉄道では最寄り駅が西武拝島線の西武立川駅、武蔵砂川駅にあたりますが、駅から3kmほどあり、西武立川駅からタクシーを併用するアクセスがひとつ。

もうひとつはJR中央線・南武線・青梅線の立川駅で下車。イオンモールむさし村山行きのバスで30分ほどかけて向かうアクセスもあります。

 

イオンモールむさし村山が巨大なショッピングモールとなっており、映画館を含むさまざまなお店と催事で賑わっていますので、あわせて訪ねるのもおススメです。

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江戸時代の村山のうどん

●1800年代の武蔵村山では、うどんはお酒と共にご馳走として食べられていた!

ところで村山うどんの由緒はどのようなものなのでしょうか?

 

武蔵村山付近は江戸時代の頃、大麦、小麦、粟などを多く生産する農業がおこなわれていました。

そこには、小平ふるさと村の記事で触れたものと同様に、関東平野の地形・地質の特徴と水回りの整備を伴う新田開拓が背景にあります。

 

村山うどんの会」によれば、「指田さしだ日記にっき」がこの付近の最も古い史料として紹介されています。

「指田日記」は当時、中藤村原山(現武蔵村山市中央 3丁目)に住んでいた指田さしだ摂津正せっつのかみ藤詮ふじあきらによって書かれた1834(江戸時代 天保5)年から1871(明治4)年の日記であり、民衆の生活の中でうどんが登場する記録となっています。

 

武蔵村山市教育委員会「注解 指田日記」 (2005, 平成17)を参照してみると、1835(天保6)年をはじめとして8か所の記載を見つけることができました。

具体的な内容はページ下方の、資料の項にまとめます。

なお、指田攝津藤詮記之 「村山村郷土史資料第一集増補再版 指田日記(抜萃)」 (1951, 昭和26)については抜粋によりうどんの記載がほとんどみられませんでした。 

 

どうやら、江戸時代の終わりから明治のはじめごろの武蔵村山では、祝い事や忌明けなど人が集まる場のご馳走としてうどんが食べられることがあったようです。

そしてなんと、お酒の席で食べられる酒肴のひとつであったようです。

ランチでいただくうどんが多い現在なので食べ方の違いに驚きます。みなさんも驚きませんか?

 

さて、小麦を多く生産しているはずの地で、小麦と塩水から作られるシンプルなうどんが、そうした冠婚葬祭や行事の日、つまりハレの日のご馳走であったのはなぜなのか。

そして日常の食事としてうどんが食べられるようになったのはいつごろなのか。

武蔵野台地のうどん文化についてもう少し知りたくなってきました。

その続きはまた次の機会に調べて書いてみたいと思います。

 

みなさんも、東京・江戸の歴史を感じながら武蔵野のうどんを食べ歩いてみてはいかがですか?


資料:

●武蔵村山市教育委員会 (1994, 平成6). 「武蔵村山市文化財資料集十一 指田日記」

  • (天保六乙未 四月小 廿一 「西隣の嫁を招く、母・元治郎三人来る 温飩ウンドンを出す」)
  • 天保十己亥 四月小 十一 「中藤谷ッ里正嫡嫁娶ニ付招カル、酒肴・温飩ヲ馳走アリ、同席鳥羽隠居・田口老人・渡辺助右衛門・神明ヶ谷日陰源八。妻ヲ羽村紺屋ニ使ス。夜、出来蔵宅ニテ無尽、七会目」
  • 天保十二辛丑 正月小 廿八 「東隣諸勘定ニヨリ立合、ウンドン馳走アリ」
  • 天保十三壬寅 正月大 九 「昨夜ヨリ雨、朝止。後ヶ谷村文右衛門為年賀来ル。昼九ッ旹市郎左衛門宅ニ招カル、温鈍。八ッ半旹、八太郎宅年始ノ客来相伴ニ招カル、高木村尾崎氏・渡辺氏ノ外客来なし。馬場忠次郎孫祝儀」
  • 天保十四癸卯 二月大 十 「商人中ヨリ、金毘羅宮ヱ太鼓奉納ニヨリ、村組頭中ト西隣ヲ請シ温飩。昌蔵母葬礼」
  • 弘化三丙午 七月大 一七 「太郎兵衛、先年家ヲ出行方知、息米蔵死去ノ後断絶ニヨリ、組合・差場寄集リ、茂左衛門宅ニテ温飩ウントン振舞、石碑ヲ立テ墓参ス」
  • 明治二己巳 正月小 廿六 「重左衛門、染場瓶不残中藤戸羽ノ世話ニテ十ヶ年貸ス、今日瓶染ハジメ、村組頭・組合・差場残ラズ、紺屋仲間勇次郎・菊次郎ヲ招キ、酒・ウンドンヲ出ス」
  • 明治三庚午 八月小 十九 「四郎兵衛、家内ノ床揚祝詞、差場・組合不残招請シ、酒・温飩ウンドンヲ出ス。鎮守太神宮祭日中当番、赤堀組ニテ舞台ヲカケル」

  ※文中、「」とある箇所は、原典では「日」偏に「之」の文字で表記されています。

 

●武蔵村山市教育委員会 (2005, 平成17). 「注解 指田日記」

  • 天保六乙未 四月小 廿一 「西隣の嫁を招く、母・元治郎三人来る 温飩ウンドンを出す」
  • 天保十己亥 四月小 十一 「中藤谷ッ里正嫡嫁娶りに付、招かる、酒肴しゅこう温飩うんどんを馳走あり、同席鳥羽隠居・田口老人・渡辺助右衛門・神明ヶ谷しんめいがや日陰の源八。妻を羽村紺屋こうやに使いす。夜、出来蔵宅にて無尽、七会目」
  • 天保十二辛丑 正月小 廿八 「東隣諸勘定により立合、うんどん馳走あり」
  • 天保十三壬寅 正月大 九 「昨夜より雨、朝止む。後ヶ谷村文右衛門年賀の為来る。昼九ッ時市郎左衛門宅に招かる、温飩うんどん。八ッ半時、八太郎宅年始の客来て相伴しょうばんに招かる、高木村尾崎氏・渡辺氏の外客来たるなし。馬場の忠次郎孫祝儀」
  • 天保十四癸卯 二月大 十 「商人中より金毘羅宮へ太鼓奉納により村組頭中と西隣をしょう温飩うんどん。昌蔵母葬礼」
  • 弘化三丙午 七月大 一七 「太郎兵衛、先年家を出行方知れず、息米蔵死去の後断絶により、組合・差場寄り集まり、茂左衛門宅にて温飩ウントン振る舞い、石碑を立て墓参す」
  • 明治二己巳 正月小 廿六 「重左衛門、染場そめばかめを残らず中藤戸羽の世話にて十ヶ年貸す。今日、瓶染かめそめはじめ、村の組頭・組合・差場残らず、紺屋こうや仲間勇次郎・菊次郎を招き、酒・うんどんを出す」
  • 明治三庚午 八月小 十九 「四郎兵衛、家内の床揚げ祝詞のりと、差場・組合残らず招請し、酒・温飩ウンドンを出す。鎮守太神社、祭日中の当番、赤堀組にて舞台をかける」 

参考文献:

  • 村山うどんの会 「村山かて🄬うどんについて」
  • 武蔵村山市立歴史民俗資料館 第15号 (1991, 平成3). 「資料館だより」 
  • 武蔵村山市教育委員会 (1994, 平成6). 「武蔵村山市文化財資料集十一 指田日記」
  • 武蔵村山市教育委員会 (2005, 平成17). 「注解 指田日記」
  • 武蔵村山市史編さん委員会 編 (2000, 平成12). 「武蔵村山市史 民俗編」

編集履歴:

  • 2018.2.11 文献内容を「資料」へ分離。一部レイアウトを変更。