前回に引き続き、けんどん屋の歴史・第3回をお届けします。
今回は、1700年代の史料から「本朝世事談綺」「蕎麦全書」「一話一言」「見た京物語」「反古染」(衣食住記)を確認していきます。
この年代はまだ、それぞれにけんどんのはじまりを語る史料が見られるのですが、それと同時にはじまりの事実を目撃していない年代での誤りもみられます。
そのため、史料に書かれている内容を理解する上でのポイントがわかるように書き残しておきたいと思います。
今回のポイントはこちら。
☑ 1700年代の史料でそれぞれに説明されるけんどんのはじまりを理解します!
☑ 1700年代の史料ではうどんに触れられず、けんどんとの関係はよくわかりませんでした!
お急ぎの方は、まとめの回へどうぞ。
けんどんのはじめを目撃せずに書いた史料がある
●菊岡沾凉「本朝世事談綺」 ~ 1人分づつ盛り、お代わりも勧めない愛想がないのが慳貪
1734(享保19)年 菊岡沾凉「本朝世事談綺」巻之一を、1836(天保7)年版でみてみます。
次のような内容が見られます。
- "けんどん"の始まりは江戸の瀬戸物町の信濃屋である。
- 信濃屋ののちに流行って、さかい町・市川屋、堀江町・若菜屋、本町・布袋屋、大鋸町・桐屋などが知られ、鈴木町・丹波屋與作が名高い。
- "けんどん"というのは自分の分だけを食べて人に与えない心であり、給仕や店員への挨拶もなく愛想がないのは"慳貪"の心だからである。
- さらには倹約になることから"儉飩"と書くという説もよろしい。
"けんどん"の初めに触れていますが、年代が書かれておらずよくわかりません。
そこで店名をヒントに、先に挙げた1687(貞享4)年の藤田利兵衛「江戶鹿子」と比較してみると次のようなことに気づきます。
- 肝心の瀬戸物町の信濃屋が「江戶鹿子」の麺類に関わる店には見られない。
- 市川屋、若菜屋は、「江戶鹿子」ではそれぞれ見頓屋、見頓堤重で見られる。
- 布袋屋は、「江戶鹿子」では町名のみ見られ、一致を確認できない。
- 大鋸町・桐屋は、「江戶鹿子」では中橋大工町となっており、移転したようにも見えるが、一致を確認できない。
- 鈴木町・丹波屋與作は、「江戶鹿子」では手打そば切屋として見られ、業態の認識が異なる。
しかし、肝心の瀬戸物町・信濃屋が見つからず、けんどんの初めの年代がわからない問題は残ります。
また、菊岡沾凉は1680(延宝8)年生まれとされ、「江戶鹿子」が既に流行っていたけんどん屋を何件も記録したころには7歳であったと考えられます。
そして沾凉は当時は伊賀国の住人とされているようでもありますし、信濃屋が最初にけんどん屋だと認識されるようになったときの事実を目撃することなく書いたものと考えられます。
果たして沾凉は伊賀から江戸へ移り住んだ時に、瀬戸物町の信濃屋のことをどのように検証して書いたのかが気になるところですね。(๑˃̵ᴗ˂̵)و
続いて、「本朝世事談綺」は"けんどん"を次のようなものだと説明しています。
- 自分の分だけを食べ、人に与えない。
- 倹約になる。
どうやらそれまでの飲食店は、一皿が1人分を超える量で、値段も高く、店主・店員に挨拶したり給仕してもらうような業態だったにも関わらず、1人でも利用できたようです。
しかし食べない分まで高く払うことは疑問に思われていたようで、1人前づつ出すお店ができたことに意味があったようです。
まとめます。
「本朝世事談綺」は、けんどんの初めを、年代がよくわからないながらも具体的な店名で示し、また"けんどん"の意味を、新たにできた"おひとり様"が利用しやすい業態の特徴から説明したことがわかる、1730年代に書かれ史料です。
●日新舎友蕎子「蕎麦全書」 ~ 1700年代の無類のそば通が語る貞享期のけんどん屋
1751(寛延4)年 日新舎友蕎子「蕎麦全書」を確認してみます。
実際には2006(平成18)年 藤村和夫『現代語訳「蕎麦全書」伝』の参照です。
次のような内容が見られます。
- 若男長十郎が貞享期(1684~1688年)にそば屋をはじめ、貞享の終わり(1688年ごろ)に工夫して「けんどん」を発売した。
- 若男は正徳期(1711~1716年)に80歳ほどで病死した。
それまでに江戸にはけんどんはなく、これがけんどんの元祖である。 - 若男長十郎の子、伊勢屋孫兵衛が日本橋堀江町2丁目横町でそば切屋を始め、1725~1726年頃に閉店した。
- 伊勢屋孫兵衛のあとに岩田屋というそば屋ができたが、2~3年で閉店し、今はない。
- 「沾凉書」(=「本朝世事談綺」)にはけんどん屋のはじめが書かれている。
またある説では「沾凉書」の堀江町・若菜屋を聞いたことがなく、若男長十郎がけんどんの元祖に違いないともいわれる。
ずいぶん以前のことなので今更はっきりしないが、貞享期にはじまったものだろう。
「蕎麦全書」は若男長十郎が営んでいたそば切屋と、その息子の堀江町の店や、また後に同所にできた岩田屋まで確認した経緯を明確に示し、「本朝世事談綺」を引用してその説を支持せず、ある説が言う若男長十郎の店が始まりだとする説を支持しています。
これにより「江戶鹿子」に見られる店名記載も疑問が示されたことになります。
では日新舎友蕎子は何歳の頃に若男長十郎の店や堀江町一帯の事実を目撃したのかと言えば、貞享期は随分以前のことだから今更はっきりしない、とさじが投げられています。
え゛~っ ٩(ˊᗜˋ;)و
この貞享期説に対し、新島繁は2002(平成14)年の「蕎麦史考」(および2006(平成18)年の「蕎麦年代記」)で、けんどんそば切がなかったとする見解を"明白な誤り"と指摘しています。
ところで、江戸時代の書物では漢字の表現が揺らぐことはざらです。
仮に若男長十郎の店が"若男屋"などとして"わかなや"と呼べる書き方をしていれば、"若菜屋"と書き広められても不思議ではないように思えますが・・・
さて、若男長十郎の店はどのような名前で呼ばれていたのでしょうか?
想像が膨らみますね。٩(ˊᗜˋ*)و
ちなみに「蕎麦全書」は、新吉原のうどんそば切やのはじめについても書いており、1720(享保5)年 庄司勝富「洞房語園異本」がいう最初とは異なる内容となっています。
最初であることをどのように検証して書いたのか、よくよく聞いてみたかったと思います。
まとめます。
「蕎麦全書」は、「本朝世事談綺」が挙げている店は聞いたことがないとし、貞享の終わりごろに若男長十郎のそば屋がはじめたのがけんどんの元祖だと思うといった感想を述べているものの、店名や論証が適切でなく説として成立していないことが見られる史料です。
「蕎麦全書」については、1700年代にありながら、そば通仲間と連れ立ってけんどん屋へ食べ歩きをした話も楽しく、新島繁「蕎麦年代記」や、藤村和夫『現代語訳「蕎麦全書」伝』 をあわせて参照するのがおススメです。٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
●大田南畝「一話一言」 ~ "大名けんどん"も一言だけだった
1775‐1822年(安永4‐文政5) 大田南畝「一話一言」巻二十 西川(權)清左衛門〈○中略〉を確認してみました。
「一話一言」では「大名けんどん」の表現が見られますが、けんどんのはじまりについてはみられませんでした。
●二鐘亭半山「見た京物語」 ~ 江戸を離れて京で目にしたことの記録
1781(天明元)年 二鐘亭半山「見た京物語」を、1969(昭和44)年 原田伴彦「見聞記」で確認してみました。
次のような内容がみられます。
- 京では他より少ないもののひとつとして、けんどん屋が挙げられていること。
- 花街である島原の中之町と思われるところで一膳飯の看板が見られたこと。
「見聞記」の解題を見てみると、江戸の幕臣であった半山が、1766年春から1年半ほど京都へ出役したときの見聞を1781年に出版したとあります。
つまり江戸と比べて京ではけんどん屋が少ないということになりますが、物事の多少について、どこを見て何軒だったのかといった事実はみられず、感想として述べられています。
また、島原のくだりでは、暗に新吉原との対比して表面的な違いを示され、その中に一膳飯の看板があったと一言だけ触れられています。
まとめます。
「見た京物語」は、江戸よりも京において少ないものの一つとしてけんどん屋が挙げられていることと、「一膳飯」の表現がみられる史料です。
ところで、似た書名として、1659(万治2)年 田中文内「見ぬ京物語」という書物があります。
こちらは「見た京物語」とは全く別の小説で、けんどんに関する記載は見られませんでした。
●越智久為「反古染」 ~ 享保期のけんどんの入れ物が明らかに
「嬉遊笑覧」が引用する「衣食住記」は書名が一致する史料が見つかっていませんが、内容がマッチする「反古染」であると推定されています。
そこで天明期(1781~1789年)に成立した越智久為「反古染」の内容を確認してみました。
次のような内容が見られます。
-
享保の頃(1716~1736年)はうどん、そば切は菓子屋に注文し、一食づつにわけたものが納品されていた。
(製麺を外注していた) - その後、麹町のひょうたんやなどのけんどん屋が出来た。
そば切をゆで、弁柄塗りの桶に入れて徳利のつゆを添えて出されていた。
その値は銀5分、銀1匁からで、要望に応じていた。
(けんどん屋のそばの出し方について道具が明らかになっている) - 享保の中ごろに、神田あたりでは「ニ八即座けんどん」という看板が出された。
うどんそば切りを好みの量で即座に出し、流行った。
その後に箱に入れて出前をするようになった。
(流行った理由と、さらには出前の始まりが書かれている) - 元文の頃(1736~1741年)より夜鷹そば切が現れ、その後に手打ちそば切、太平盛りが現れ、宝暦の頃、風鈴そば切の品々が現れた。
(そばの夜売りなど売り方のスタイルの始まりが書かれている)
ここで、享保以前に書かれた史料に戻ってみると、1687(貞享4)年の藤田利兵衛「江戶鹿子」、1697(元禄10)年の「国分寺村名主八郎右衛門我儘ニ付訴状」に"けんどん屋"の存在が見られ、享保よりも前にけんどん屋があったことを確認できます。
また、1687(貞享4)年の「江戶鹿子」では「手打そば切 鈴木町横町 丹波屋与作」と店名が挙げられています。
「反古染」は"けんどん屋"や"手打そば切"の最初を捉えたものではないようです。
まとめます。
「反古染」は、遅くとも享保の頃(1716~1736年)にうどんやそば切が菓子屋で製麺されており、そののちに麹町にけんどん屋ができたとし、また夜鷹そば切、手打ちそば切のはじまりが遅くとも元文の頃(1736~1741年)とする内容を、天明期(1781~1789年)に書いた史料です。
しかし享保以前の史料でけんどん屋と手打そば切屋があったことは示されており、"けんどん屋"と"手打そば切"については最初を捉えた史料ではありません。
なお、国立国会図書館所蔵の3点の「反古染」にはけんどんのくだりが含まれていませんでした。
そのため原文との相違点に注意しながら1909(明治42)年「続燕石十種」第一巻と、2003(平成15)年 吉見孝夫「『嬉遊笑覧』が引用する『衣食住の記』」を参照しています。
次回は1800年代の史料を理解する
1700年代の史料を追ってみましたが、かなり内容が長くなってしまいましたので今回はこのあたりで区切りたいと思います。
次回はまだ残っている、1800年代の史料を追ってみたいと思います。
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- 書籍情報「現代語訳 蕎麦全書 伝」
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