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武蔵野うどん - 東京 武蔵関「にはち」

東京 武蔵関内で、十割蕎麦の専門店「にはち」さんを訪ねました。

うどん前の酒肴と、〆にはもちろん手打うどんをいただきました。

 

そして、お隣の西東京市付近のうどんの歴史を確かめてみましょう。

 

今回のポイントはこちら。

 ☑ 手打の十割蕎麦屋・武蔵関「にはち」さんで、〆に手打うどんをいただきました!

 ☑ 西東京市周辺では1759(宝暦9)年ごろには小麦が作られていることを確認できました!

住宅に囲まれたアクセス

お店は、西武新宿線・武蔵関駅から徒歩2、3分の場所にあります。

鉄道が便利でしょう。

 

マンションの1階ですが、店名が書かれた木の板が掲げられ、木製の扉や窓枠に暖簾がかかってり、見るからに手打のそば屋といった雰囲気が感じられます。

 

そして店内も、木製のテーブルや椅子と、厨房との間には簾がかかっており、和の雰囲気があります。

座席は4人掛けのテーブル席を中心に、2人掛けのテーブル席もあります。

カウンター席が見られませんので、2人から4人で訪ねたいところです。

 


飲める手打蕎麦屋で〆にうどんを楽しむ

ドリンクメニューには純米酒が並んでいます。

そして、常温、燗酒と書かれています。

お酒の味わいを楽しめるように提供されていることがわかり、安心します。

であるならば。

このメニュー構成に呼応するべく、1杯目からお酒をオーダーで決まりです。٩(ˊᗜˋ*)و

 

酒肴を何品か楽しんでみましょう
こちらは過日の「白菜とゆばの酢味噌和え」。

 

続いて「鶏つくねとエビいもの炊き合わせ」。
煮物も酒肴の味で、お酒が進みます。(*˘ᗜ˘*)

 

揚げ物「海老の天ぷら」で酒肴を〆ます。

 

そして僭越ながら、手打の十割蕎麦屋で「うどんもり」をオーダーします。

 

10分かからないほど後に、綺麗なおうどんが登場。٩(๑´o`๑)۶

まず麺はとても細く、ややクリーム色がかっています。

 

頬張ると、細いながらもクチっとした食感と、小麦のワイルドな風味が薄く感じられます。

食べていると蕎麦風に感じられるのも、お蕎麦屋さんの細打ちのおうどんならでは。

 

またつけつゆは、節の風味が味の厚みを出しており、醤油の角がまるい風味が続きます。

 

酒肴を出される手打の十割蕎麦屋さんは、自家製の心意気が素晴らしいですね。

おうどんまで美味しくいただけました。
そして、酒肴で多数の食材をいただけるのも嬉しいところです。

ごちそうさまでした!٩(ˊᗜˋ*)و

 

はっ(๑º ⌓ º๑)!! また、そば屋でうどんを楽しんでしまった・・・


西東京市周辺のうどんの歴史を調べてみる

さて、そんな武蔵関周辺には、どのようなうどんの歴史があるのでしょうか?

武蔵関がある練馬区については前回の記事に書きましたので、今回はお隣の西東京市のうどんの歴史を調べ、まとめてみたいと思います。

●江戸時代には小麦が作付けされたり水車で製粉されていた

西東京市あたりの歴史は、西東京市が合併して成立する前の旧・保谷市と旧・田無市のそれぞれ市史でみられます。

 

しかし、そうした市史を開いてみたものの、江戸時代にもうどんが食べられていたことや、うどんを売っていた職業についての記載を見つけることはできませんでした。

 

ただし、原材料については 「保谷市史 史料編1 近世(1)」「保谷市史 史料編2 近世(2)」で1757(宝暦7)年ごろに作付けされ、1855(嘉永5)年にわたって小麦が換金されたり進物に用いられていたことが見られます。

また「田無市史 第一巻 中世・近世史料編」では1857(安政4)年ごろに当地の水車で小麦を挽いており、その様子を老中らにデモンストレーションしていたことが見られます。

 

まとめます。

西東京市周辺で、旧・保谷市あたりでは1757(宝暦7)年ごろには小麦が作付けされており、その後に換金されていた記録も見られ、また旧・田無市あたりでは1857(安政4)年ごろに水車で小麦を挽き、製粉していたことを確認できるものの、江戸時代にうどんがつくられたり食べられたりしていたことの記録は見つけられず、このあたりのうどんの歴史についてはよくわかりませんでした。

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記事店舗


資料:

「田無市史 第一巻 中世・近世史料編」

  • 1857(安政4)年 「安政四年 四月 老中ら通行に付人数并泊込外諸事控書」
    水車で小麦の挽き立てをデモンストレーションした様子が記されている。

 

「保谷市史 史料編1 近世(1)」

  • 1759(宝暦9)年「宝暦九年四月 下保谷村明細帳」
    「一畑作大麦・小麦・岡穂・粟・稗・芋・蕎麦作申候、」など畑作していた作物の一つとして列挙されている。

 

「保谷市史 史料編2 近世(2)」

  • 1757(宝暦7)年「宝暦七年二月 尾張徳川宗勝鷹野御目見次第記録」
    「進物小麦こ二袋つつ三人江」
  • 1843(天保14)年「天保十四年九月 武蔵野新田増免取下げ願」
    大麦・小麦の換金の記録と、大麦・小麦のための肥料の使用量が記載されている。
  • 1855(嘉永5)年「嘉永五年五月 上保谷村本橋家普請帳」
    普請の参加者と寄せられた物品として小麦の記載がある。

調査文献: 

  1. 田無市史編さん委員会編「田無市史 第一巻 中世・近世史料編」
  2. 田無市史編さん委員会編「田無市史 第四巻 民俗編」
  3. 保谷市史編さん委員会編「保谷市史 史料編1 近世(1)」
  4. 保谷市史編さん委員会編「保谷市史 史料編2 近世(2)」
  5. 保谷市史編さん委員会編「保谷市史 通史編2 古代・中世・近世」
  6. 保谷市史編さん委員会編「保谷市史 通史編4 民俗」